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バロン・フォン・ラシク(Baron Von Raschke、本名:James Donald Raschke、1940年10月17日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。ネブラスカ州オマハ出身。 もともとはアマチュアレスリングの強豪で、オリンピックの代表選手に選ばれたほどの実力者だったが、プロ転向後はナチス・ドイツ・ギミックのヒールに変身。1970年代を全盛期に、NWA、AWA、WWWFの各団体で活躍した。その風貌やキャラクターから怪奇派レスラーのムードも漂わせ〔『昭和プロレス・マガジン 第31号』P62(2013年、ミック博士の昭和プロレス研究室)〕、日本では「妖獣」の異名を付けられた〔『THE WRESTLER BEST 1000』P53(1996年、日本スポーツ出版社)〕。 == 来歴 == シニア・ハイスクール時代からレスリングの名選手として活躍、1958年にネブラスカ州のヘビー級王者となり、ネブラスカ大学に入学後もビッグ・エイト・カンファレンスで優勝を果たし、オール・アメリカンに2回選出されている。1963年にスウェーデンで開催された世界大会ではグレコローマン・スタイルで銅メダルを獲得、陸軍に入隊後の1964年にもAAUのナショナル・チャンピオンシップで優勝〔。同年の東京オリンピックにもアメリカ代表で出場が決定していたが、怪我のために参加を断念〔〔。オマハに戻った後、同地区のプロモーターだったジョー・デュセックからAWAの総帥バーン・ガニアを紹介され、同じくレスリング出身だったガニアのトレーニングのもと、1966年にプロレス入り〔〔。 当初はジム・ラシクのリングネームで正統派レスラーとして活動していたが、1967年にマッドドッグ・バションの助言により、カナダのモントリオールにてスキンヘッドのナチス・ドイツ・ギミックに変身し、バロン・フォン・ラシクを名乗ってヒールに転向〔。このギミックの先達フリッツ・フォン・エリックにあやかったブレーン・クローをフィニッシュ・ホールドに、同年11月27日にエドワード・カーペンティアからIWAインターナショナル・ヘビー級王座を奪取して脚光を浴びる〔。1968年末よりテキサスの東部地区に参戦し、フリッツ・フォン・エリックやワフー・マクダニエルと抗争を展開。1969年4月1日にはエリックからNWAアメリカン・ヘビー級王座を奪取、同年6月3日にはトーナメントの決勝でホセ・ロザリオを破り、空位となっていたテキサス・ブラスナックル王座を獲得した。 1970年はAWAの提携団体だったインディアナポリスのWWAに登場。ボビー・ヒーナンをマネージャーに従え、3月7日にディック・ザ・ブルーザーからWWA世界ヘビー級王座を奪取する。以降もWWAを主戦場に、同じくヒーナンがマネージメントしていたザ・ブラックジャックスのブラックジャック・マリガンやブラックジャック・ランザとも共闘、ブルーザーをはじめウイルバー・スナイダーやカウボーイ・ボブ・エリスらと抗争を繰り広げ、WWA世界ヘビー級王座には通算3回戴冠〔。1973年2月24日にはアーニー・ラッドをパートナーに、ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーを下してWWA世界タッグ王座も獲得している。 1974年より本拠地のAWAに戻り、ドイツ出身のホースト・ホフマンと組んでビル・ロビンソン&ジェフ・ポーツのイギリス人コンビと英独のタッグ抗争を展開。バーン・ガニアのAWA世界ヘビー級王座にも再三挑戦し、アンドレ・ザ・ジャイアントともシングルマッチで対戦した。1976年12月からはフレッド・ブラッシーをマネージャーに迎えてWWWFに登場、1977年3月28日と4月25日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにて、WWWF世界ヘビー級王者のブルーノ・サンマルチノに連続挑戦した。チーフ・ジェイ・ストロンボー&ビリー・ホワイト・ウルフが保持していたWWWF世界タッグ王座にも、スタン・スタージャックらと組んで東部各地で挑戦している。 その後はジム・クロケット・ジュニア主宰のミッドアトランティック・チャンピオンシップ・レスリングで活動、1978年6月7日、グレッグ・バレンタインと組んでリッキー・スティムボート&ポール・ジョーンズから同地区版のNWA世界タッグ王座を奪取。ヒールターンしたポール・ジョーンズとのコンビでも、1979年5月1日にジミー・スヌーカ&ポール・オーンドーフ、8月22日にリック・フレアー&ブラックジャック・マリガンを破って同王座を獲得、スティムボート&ジェイ・ヤングブラッドのアイドル・チームともタイトルを争った〔。 1980年代初頭はジョージアやフロリダなどNWAの南部テリトリーで活動。ジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリングでは、1980年6月8日にオースチン・アイドルを破りNWAジョージア・ヘビー級王座を獲得。エディ・グラハム主宰のチャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダでは、同年11月21日にバリー・ウインダムからNWAフロリダTV王座を奪取、ダスティ・ローデスやジャック・ブリスコ、ボボ・ブラジル、バグジー・マグローとも抗争を展開した。NWAの総本山だったセントルイスのキール・オーディトリアムにも度々登場し、デビッド・フォン・エリックやテッド・デビアスとのシングルマッチ、ディック・マードックやブルーザー・ブロディと組んでの6人タッグマッチなどに出場している。 1981年3月よりベビーフェイスのポジションで古巣のAWAに復帰し、ビッグ・ジョン・スタッド、ジェリー・ブラックウェル、ジェシー・ベンチュラ&アドリアン・アドニスらと対戦。1982年には当時AWAでブレイク中だったハルク・ホーガンともタッグを組み、ヒーナン・ファミリーのニック・ボックウィンクル、ケン・パテラ、ボビー・ダンカンと抗争した。1984年5月6日には旧敵クラッシャー・リソワスキーとのベテラン・コンビでパテラ&ブラックウェルからAWA世界タッグ王座を奪取、8月25日にロード・ウォリアーズに敗れるまで保持した。 1986年にはミッドアトランティック地区にて、負傷したクラッシャー・クルスチェフの代打としてイワン・コロフ&ニキタ・コロフのザ・ラシアンズと共闘。再びヒールとなり、同地区でフェイスターンしていたロード・ウォリアーズとの抗争を再開した。1988年には短期間ながらWWFに登場し、ザ・バロンの名前でパワーズ・オブ・ペイン(ザ・バーバリアン&ザ・ウォーロード)のマネージャーを務めた〔。 以降はAWAに戻り、1991年にAWAの活動が終了するまで単発的にリングに上がっていた〔。その後もインディー団体に時折出場していたが、1995年に引退〔。以降もカリフラワー・アレイ・クラブなどのOB会やイベントに時折顔を見せており、2010年4月17日にはTNAロックダウンのファンフェスタに、ドリー・ファンク・ジュニアやボビー・ヒーナンと共にレジェンドとして出席した。 プライベートでは物静かな読書家でもあり、博学で紳士的な一面も持ち合わせる〔。本人は、ヒールを演じることで本来の自分とは別の人格になり切れたことを楽しんでいたという〔『世界名レスラー100人伝説!!』P188(2003年、日本スポーツ出版社、監修:竹内宏介)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「バロン・フォン・ラシク」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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