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バンクーバー朝日(Vancouver Asahi)は、1914年から1941年まで、カナダ・バンクーバーで活動していた、日系カナダ移民の二世を中心とした野球チーム〔私のカナダ物語 元『朝日軍』選手 ケイ上西(かみにし)さん 〕。 ==球団史== 朝日が結成される前の1908年頃、カナダではビクトリアやバンクーバーに「ニッポン」を名乗る日系二世の野球チームが組織されていた。野球チーム設立の当初の目的は、日系カナダ移民の二世への教育目的があったという。 朝日は1914年に結成〔、初代の監督には宮本松次郎が就任した。宮本は「馬車松」とあだ名されるほど精力的な人物だったそうで、チームも猛練習の末に力をつけていった。当時の日系人社会を中心とした支援をうけながら、朝日は5年目の1919年に、マイナーリーグにあたるインターナショナル・リーグで優勝する。この頃のチームは一軍から五軍までの構成であったらしく、一軍以外は下からそれぞれ「クローバーズ」「ビーバーズ」「アスレチックス」「カブス」という愛称を持っていた(一軍も短い期間ながら「タイガース」と名乗っていたことがあったようである)。 1921年に、朝日は日本運動協会の招待を受けて日本に遠征する。しかしこの時、理由は不明だが朝日はチーム分裂を起こす。二代目の監督であった笠原、主力選手のハリー宮本、トム的場、ジョージ伊藤らが脱退して別の野球チームを結成する動きがあった。本体のチームは結局4人の白人を加えての遠征となった。遠征における朝日の試合経過や結果はよく判っていないが、当時の雑誌の論評によれば、「守備はともかく打力がさっぱり」と酷評されていた。当時和歌山中と対戦し敗れた記録が残っているようである〔。また函館太洋倶楽部とは3回戦を行い、1勝2敗の成績を残している〔今話題の映画「バンクーバーの朝日」 - 函館太洋倶楽部公式HP、2015年1月12日〕。 遠征から帰国後、朝日はチームを再編成し、ハリー宮崎が監督をつとめた。ハリーはブリティッシュ・コロンビア州各地の白人チームから有力な選手を引き抜く一方、堅い守りとバントやエンドランなどの緻密な機動力を駆使する「Brain Ball」(頭脳野球)と呼ばれた戦術を編み出す。1926年に朝日は前年から加盟していたターミナル・リーグで優勝を果たし、その後1930年と1933年にもリーグ制覇を遂げている。当時ハリーは選手に対して、ラフプレーを禁じ、抗議も一切行わないよう指導した。これは当時の日本人社会と白人社会との間の軋轢をかんがみたものと考えられている。結果、朝日は日系人だけでなく、白人も応援するチームになっていった。 1935年、結成されたばかりの大日本東京野球倶楽部(東京ジャイアンツ)が北米遠征を行った際には、バンクーバーで朝日との対戦を行っている〔。その後1930年代後半は、毎年監督が変わり成績も伸び悩む時期が続いたようである。1941年、第二次世界大戦が始まると、選手達は戦時捕虜収容所や強制疎開地などに送られ、朝日はチームとしての歴史を閉じる。ただ当時朝日に所属していた選手達が、収容所内で野球大会をしていたという記録が残っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「バンクーバー朝日」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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