|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
バンダル・ビン・スルターン・ビン・アブドゥルアズィーズ・アール=サウード(アラビア語: بندر بن سلطان بن عبدالعزيز آل سعود、Bandar bin Sultan、1949年3月2日 - )はサウジアラビアの政治家。王族サウード家の一員で、元皇太子スルターン・ビン・アブドゥルアズィーズの子、初代国王アブドゥルアズィーズ・イブン・サウードの孫。駐米サウジアラビア大使、サウジアラビア総合情報庁長官、国家安全保障会議事務局長を歴任した。 == 略歴 == 1949年、初代国王イブン・サウードの15男(16男とも)のスルターンと妾の間に生まれる。1968年にイギリスのクランウェル王立空軍大学を卒業、アメリカ合衆国のマックスウェル空軍基地で追加トレーニングも行った。不時着時の怪我により1977年に中佐の階級でサウジアラビア空軍のキャリアに終わりを告げ、アメリカのジョンズ・ホプキンス大学で国際公共政策の修士号を取得した。 1978年から外交デビュー。第5代国王ファハド・ビン=アブドゥルアズィーズの個人特使として、F-15をサウジアラビアに販売するようアメリカの連邦議会に働きかけ成功した。 1983年から2005年まで20年以上に渡って駐米大使を務め、アメリカ政界におけるサウジロビーの顔役となる。ロナルド・レーガン政権下では、アメリカ最強のロビー団体の一つといわれているアメリカ・イスラエル公共問題委員会(AIPAC)の反対にもかかわらず、E-3早期警戒管制機のサウジへの販売を成功させる。さらにサウジアラビアが戦略ミサイル部隊をつくるきっかけとなる中華人民共和国の中距離弾道ミサイルDF-3購入にも関わった〔"Prince Bandar bin Sultan: Larger-than-life diplomacy". The Economist. 6 November 2008. 〕。イラン・コントラ事件ではニカラグアへの資金提供に関わったとされ、この時にアメリカ側の窓口をつめた後に大統領となるジョージ・H・W・ブッシュ副大統領と親交を深めたとされる。このブッシュ家とバンダルとの親密さは映画『華氏911』でも取り上げられ、このことからバンダル・ブッシュと渾名される〔Robert Baer (May 2003), "The Fall of the House of Saud", The Atlantic, retrieved 5 December 2010〕。2000年代に入りバンダルはジョージ・H・W・ブッシュの息子のジョージ・W・ブッシュ政権時に、軍事行動によるイラクのサッダーム・フセイン政権の打倒を提唱、ディック・チェイニーが提唱するイランとシリアの政権打倒プログラム「The new Middle East(新中東)」政策を支持し、実際に彼の思惑通りにアメリカの中東政策は進んだ。また、イランと対立するイスラエルに接近するサウジアラビアの外交戦略も主導してきた〔"Crown Prince Sultan backs the King in family" . Wikileaks. 12 February 2007. Foreign Policy. 〕。 2005年10月、第6代国王アブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズの下で、駐米大使を退き国家安全保障会議事務局長に就任した。駐米大使の後任には、バンダルが駐米大使だった20余年とほぼ重複する時期に総合情報庁長官を務めていたトゥルキー・アル=ファイサル王子が就任した。 2010年から始まったアラブの春における2011年バーレーン騒乱の際には、サウジは自国に反政府デモが飛び火しないように、バーレーンに戦車を派遣してバーレーン政府のデモ隊鎮圧に協力したが、この際、バンダルが友好国の中国やパキスタンなどからデモ隊鎮圧の支持をとりつけるための特使となった〔John Hannah (22 April 2011). "Shadow Government: Bandar's Return ". 〕。サウジが民主化反対で一致する中国と協力関係を深めてバーレーンの反政府デモ鎮圧に介入したことは、かつてワルシャワ条約機構によるプラハの春弾圧の論拠となったソ連の制限主権論を想起させる事態であると批判された〔Riedel, Bruce (2011). "Brezhnev in the Hejaz". The National Interest 115. Retrieved 23 April 2012.〕。 2012年から国家安全保障会議事務局長と兼任する形で総合情報庁長官に就任。2013年7月にロシアに極秘訪問し、ウラジーミル・プーチン大統領に「ロシアがシリアから手を引けばチェチェンのイスラム過激派の対露テロ行為を止めさせることが出来、ソチオリンピックも安全に開催できる」と提案したが、プーチンは「サウジがチェチェンのテロリストの後ろ盾だと知っている」として猛然と提案を拒否したという〔ロシア大統領、「サウジをテロのリストに」 イランジャパニーズラジオ 2014年1月5日〕。10月に、バンダルは、サウジがシリア・イラン政策で、穏健的な態度を採るバラク・オバマ政権下のアメリカとは離れて進むことを言明した〔サウジ情報機関トップのバンダル王子「対米関係見直す」 日本経済新聞 2013年10月23日〕。 2014年に「自身の要求のため」として統合情報庁長官を解任された。アメリカの意向による圧力と見られ、ジョン・ケリー国務長官はバンダルを「問題」としていた。総合情報庁は、イラクやシーア派の軍事大国のシリアやイランを弱体化させるために過激派のアルカーイダやISILなどサラフィー・ジハード主義者を影で支援してきた過激派の最大のスポンサー若しくは黒幕といわれてきたが、新保守主義(ネオコン)と呼ばれたブッシュ政権に比べて対シリア・イラン穏健路線を採るオバマ政権にとっては、過去の政策を引きずるバンダルの存在が都合が悪くなったからだと言われている。イラン、駐シリアヨルダン大使のバハジャト・スレイマン、一部のジャーナリスト、学者は、バンダルこそがアルカーイダとISILの真の指導者であるとしている〔Saudi Prince is real leader of al-Qaeda ALALAM 2013年10月19日〕〔‘Bandar Bush’ is back calling the shots on ISIL’s advance through Iraq Intrepid Report 2014年7月7日〕〔Global Terrorism and Saudi Arabia: Bandar’s Terror Network Global Reseach 2014年1月11日〕〔「ISIS」の後ろ盾となるサウジとアメリカの関係悪化が日本に飛び火する日 ZAKZAK 2014年9月23日〕。 2014年6月、国家安全保障会議事務局長と兼任する形で、国王顧問、国王特使にも就任し権力の中枢に復帰したと見られていたが、2015年1月、第6代国王アブドゥッラーの死去に伴い即位した第7代国王サルマーン・ビン・アブドゥルアズィーズの内閣改造により、国家安全保障会議事務局長、国王顧問、国王特使を解任された〔サウジ新国王、内閣改造で独自色 前国王の息子ら解任 AFP 2015年1月30日〕。国家安全保障会議は廃止され、ムハンマド・ビン・ナーイフ副皇太子兼第二副首相兼内務大臣を議長とする政治・安全保障評議会が新設された〔サルマーン新政権の発足・国民への給付金の支給 中東かわら版 2015年1月30日〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「バンダル・ビン・スルターン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|