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バンプ・ウィルス(Elliot Taylor "Bump" Wills, 1952年7月27日 - )は、アメリカ合衆国ワシントンD.C.出身の元プロ野球選手(内野手)。阪急ブレーブスでの登録名は、バンプ。 父親は同じくプロ野球選手のモーリー・ウィルス。 == 来歴・人物 == アリゾナ州立大学を経て、の二次ドラフト1巡目(全体の6番目)でテキサス・レンジャーズに指名されて契約。 父親譲りの快速で、メジャーデビューしたからまでレギュラーとして活躍し、1977年には新人ながら152試合に出場して打率.287、9本塁打、62打点、28盗塁を記録。同年8月27日にはトビー・ハラーとメジャー史上初(現時点で唯一)の二者連続ランニングホームランを記録。 には157試合に出場し、自己最多の52盗塁を記録。には父モーリーが同じ地区(アメリカンリーグ西地区)のシアトル・マリナーズの監督に就任し、メジャーで監督の父親と他球団の選手として対戦したメジャー最初の選手となった。 にシカゴ・カブスに移籍。トラディッショナル・オープナー(一番早い開幕戦)の対シンシナティ・レッズ戦で1番に起用され、初回先頭打者として2球目に本塁打を打った。この年も128試合に出場したが、のちにアメリカ野球殿堂入りするライン・サンドバーグの二塁コンバートで構想から漏れた。 に日本プロ野球(NPB)の阪急ブレーブスに入団。阪急が父・モーリーをしばしば臨時コーチに招いていた縁からだった。「ウィルス」と登録される予定であったが、同期入団の外国人選手であるブーマー・ウェルズと紛らわしいために「バンプ」と登録された。ウェルズも同様に「ブーマー」と登録された。メジャーでの実績から破格の4年契約(年俸1億円、ブーマーの年俸は当時2,500万円)を結び、ブーマー以上の期待がかけられ、福本豊・簑田浩二との「俊足トリオ」として売り出し、競走馬との「レース」にまで「出走」した(簑田は「出走取消」した)。開幕からしばらくは2番で起用されたが、打撃不振のため4月下旬以後は7番での起用が中心となった。 も正二塁手として起用されてはいたが、打率2割3分台の打撃不振の上、起用法を巡って監督の上田利治と対立し、8月4日の出場を最後に帰国。チームはリーグ優勝したが、日本シリーズの登録メンバーからも外された。1984年に三冠王を獲得してMVPにも選ばれ、その後も日本で活躍したブーマーとは対照的に、同年限りで退団した。 当時通訳を務めていたロベルト・バルボンは、「20年間通訳やったけど、バンプだけや、日本の野球が好きじゃなかったのは。いつも帰りたいと言ってケンカし、ブーマーに止められてた。」と話している〔阪急ブレーブス黄金の歴史 よみがえる勇者の記憶 1936-1988、ベースボール・マガジン社、2011年、p51〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「バンプ・ウィルス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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