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バージニア・ルジッチ : ミニ英和和英辞書
バージニア・ルジッチ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

バージニア・ルジッチ : ウィキペディア日本語版
バージニア・ルジッチ[ちょうおん]

バージニア・ルジッチVirginia Ruzici, 1955年1月31日 - )は、ルーマニアクンピャ・トゥルジイ出身の元女子プロテニス選手。1978年全仏オープン女子シングルス優勝者である。ルーマニア出身の先輩選手イリ・ナスターゼ1972年全米オープン1973年全仏オープン4大大会に2勝した後、ルジッチは女子の第一人者として活躍し、同国の女子選手として最初の4大大会優勝者になった。WTAツアーでシングルス14勝を挙げる。
ルジッチは1973年から女子テニス国別対抗戦・フェデレーションカップルーマニア代表選手になり、1975年にプロ入りした。1976年から競技成績を伸ばし、全仏オープンスー・バーカーイギリス)との準決勝まで進み、全米オープンではミマ・ヤウソベッツユーゴスラビア)との準々決勝まで勝ち進む。1978年全仏オープンで、バージニア・ルジッチは女子シングルス優勝、女子ダブルス優勝、混合ダブルス準優勝を記録し、3部門すべてで決勝進出を果たした。女子シングルス決勝戦では、大会2連覇を目指したヤウソベッツを 6-2, 6-2 で圧倒し、ルーマニア出身の女子選手として最初の4大大会優勝者になる。この年は続くウィンブルドン全米オープンでもベスト8に入り、女子テニスツアーでも年間5勝を挙げるなど、彼女の選手経歴の中でもハイライトの時期だった。1980年全仏オープンで2年ぶり2度目の決勝進出を果たしたが、今度はクリス・エバート・ロイドに 0-6, 3-6 で敗れ、2度目の優勝はならなかった。
ルジッチが2度目の優勝を逃した1980年まで、全仏オープンの女子シングルス本戦は出場資格者が「64名」であり、決勝までに6試合を勝ち進む流れになっていた。しかし1981年から出場枠が現在のような「128名」になり、7試合を勝ち進む方式に拡大された。その中で、ルジッチは1981年と1982年の大会では準々決勝まで進んでいる。この2年間は、上位シード選手は「1回戦不戦勝」(テニスの成績表では“BYE”という)を認められていた。1983年から現在のような、128名の選手全員が1回戦から勝ち抜くトーナメント方式になる。ルジッチの現役選手時代は、4大大会のトーナメント・システムにも大きな変更が加えられた過渡期でもあった。
1982年ウィンブルドン準々決勝でマルチナ・ナブラチロワに 2-6, 3-6 で敗れた試合の後、ルジッチのテニス成績は下降線にさしかかる。1987年のシーズンを最後に、ルジッチは32歳で現役を引退した。

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抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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