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バート・ウッド・アッベイ(Bert Wood Abbey, 1869年11月29日 - 1962年6月11日)は、メジャーリーグベースボールの右投右打の投手。アメリカ合衆国のバーモント州出身。 == 経歴 == バーモント大学在学中、アッベイは学生たちをスカウトし、カテマウンツ(Catamounts,オオヤマネコの意)という野球のチームを結成。これが野球人としてのキャリアのスタートとなった。チーム内でアッベイは、選手、コーチ、キャプテンを兼任し、チームの野球の質とトレーニングのプログラムを急速に進歩させた。これが実を結び、アッベイの卒業後、チームはプロ相手にも勝利を収めるなど、強豪として名を馳せることとなった。 1891年に大学を卒業した後、ワシントン・セネタースから指名を受け、入団。1892年6月14日にメジャーデビューを果たした。この年は主に先発としてマウンドに立ち、後に2度の最多勝投手となるフランク・キレンに次ぐチーム2位の27試合に登板。投球回も195.2を数えたが、これもキレンに次いでチーム2位の数字だった。 その後、ピッツバーグ・パイレーツへ移籍するも、ジョージア州メイコンのファームのチームへと送られ、パイレーツでメジャーのマウンドに立つことはなかった。 翌1893年、パイレーツからシカゴ・コルツ(Chicago Colts)へとトレードで移籍。コルツには1895年の途中まで所属したが、この間19試合にしか登板出来ず、4勝12敗、防御率5.25と結果を残すことは出来なかった。 前述の通り、1895年の途中でブルックリン・グルームス(Brooklyn Grooms)へと移籍し、8試合に登板。翌1896年、チームは名前をブルックリン・ブライドグルームス(Brooklyn Bridegrooms)と変更。アッベイ自身もこの年は登板機会に恵まれ、25試合で164.1回に登板するなど、一年目に次ぐ数字を記録したが、メジャーで登板したのはこの年の9月23日、モントリオールでの試合が最後となった。 1897年から1899年の3年間、アッベイはマイナーリーグでプレイを続けた。1897年と1898年には15勝を記録するなどメジャー復帰を目指していたが、結局1899年限りで現役を引退し、メジャーで再び登板するには至らなかった。 1962年、92歳となっていたアッベイは心臓病のため死亡。エセックス・ジャンクション(Essex Junction)のマウンテン・ビュー・セメタリー(Mountain View Cemetery)に埋葬された。 死から7年後の1969年、バーモント大学の体育殿堂入り(UVM's Athletic Hall of Fame)を果たした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「バート・アッベイ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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