翻訳と辞書
Words near each other
・ バートン・フィンク
・ バートン・リクター
・ バートン・リヒター
・ バートン反応
・ バートン湖
・ バートン郡 (カンザス州)
・ バートン郡 (ミズーリ州)
・ バート・I・ゴードン
・ バート・アイルゼン
・ バート・アダムズ
バート・アッベイ
・ バート・アレクサンダースバート
・ バート・アロルゼン
・ バート・アーロルゼン
・ バート・イシュル
・ バート・ウォード
・ バート・ウーンハウゼン
・ バート・エムス
・ バート・エムスタール
・ バート・エントバッハ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

バート・アッベイ : ミニ英和和英辞書
バート・アッベイ[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

バート・アッベイ : ウィキペディア日本語版
バート・アッベイ[ちょうおん]

バート・ウッド・アッベイBert Wood Abbey, 1869年11月29日 - 1962年6月11日)は、メジャーリーグベースボールの右投右打の投手アメリカ合衆国バーモント州出身。
== 経歴 ==
バーモント大学在学中、アッベイは学生たちをスカウトし、カテマウンツ(Catamounts,オオヤマネコの意)という野球のチームを結成。これが野球人としてのキャリアのスタートとなった。チーム内でアッベイは、選手、コーチ、キャプテンを兼任し、チームの野球の質とトレーニングのプログラムを急速に進歩させた。これが実を結び、アッベイの卒業後、チームはプロ相手にも勝利を収めるなど、強豪として名を馳せることとなった。
1891年に大学を卒業した後、ワシントン・セネタースから指名を受け、入団。1892年6月14日にメジャーデビューを果たした。この年は主に先発としてマウンドに立ち、後に2度の最多勝投手となるフランク・キレンに次ぐチーム2位の27試合に登板。投球回も195.2を数えたが、これもキレンに次いでチーム2位の数字だった。
その後、ピッツバーグ・パイレーツへ移籍するも、ジョージア州メイコンのファームのチームへと送られ、パイレーツでメジャーのマウンドに立つことはなかった。
1893年、パイレーツからシカゴ・コルツ(Chicago Colts)へとトレードで移籍。コルツには1895年の途中まで所属したが、この間19試合にしか登板出来ず、4勝12敗、防御率5.25と結果を残すことは出来なかった。
前述の通り、1895年の途中でブルックリン・グルームス(Brooklyn Grooms)へと移籍し、8試合に登板。翌1896年、チームは名前をブルックリン・ブライドグルームス(Brooklyn Bridegrooms)と変更。アッベイ自身もこの年は登板機会に恵まれ、25試合で164.1回に登板するなど、一年目に次ぐ数字を記録したが、メジャーで登板したのはこの年の9月23日モントリオールでの試合が最後となった。
1897年から1899年の3年間、アッベイはマイナーリーグでプレイを続けた。1897年と1898年には15勝を記録するなどメジャー復帰を目指していたが、結局1899年限りで現役を引退し、メジャーで再び登板するには至らなかった。
1962年、92歳となっていたアッベイは心臓病のため死亡。エセックス・ジャンクション(Essex Junction)のマウンテン・ビュー・セメタリー(Mountain View Cemetery)に埋葬された。
死から7年後の1969年、バーモント大学の体育殿堂入り(UVM's Athletic Hall of Fame)を果たした。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「バート・アッベイ」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.