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バート・ランカスター(Burt Lancaster, 1913年11月2日 - 1994年10月20日)は米国の映画俳優、映画プロデューサー。ニューヨーク生まれで、本名はバートン・スティーヴン・ランカスター(Burton Stephen Lancaster)。 == 略歴 == 五人兄弟の四男として生まれる。父は郵便局員だったが週給はわずか48ドルという貧しい家庭に育ち、雪かきや靴磨き、新聞の売り子をして家計を助けていた。 初期には各種映画情報誌や映画パンフレット等のプロフィールでアイルランド系と記されていたが没後はイタリア系との説もあり彼のルーツは謎のままである。 子供の頃から読書が好きで、映画はルドルフ・ヴァレンティノかダグラス・フェアバンクスのファンで、特にフェアバンクスの冒険活劇には熱中し、1920年にフェアバンクスの『奇傑ゾロ』が近くの劇場にかかった時は真っ先に切符売場に並んで食い入るように見たという。 デイヴィッド・クリントン・ハイスクール時代は体育部に属しバスケットボールの選手として活躍、その奨学金を得てニューヨーク大学に進学した。当初は体育教師を志して勉強に励んでいたが、退屈な授業に嫌気がさして2年で中退、幼馴染でボクサーのニック・クラヴァットとラング・クラヴァートというアクロバットチームを組み1932年サーカスに入団し、空中アクロバットの花形として活躍した。 1939年、セントルイスで興行中にランカスターが指を負傷したためチームは解散。その後はモデル、消防士、ウェイター〔Andreychuk 2005, p. 6.〕などの職を転々としながら暮らしていたが、折からの第二次世界大戦のため1942年にアメリカ海軍に一兵卒として入隊。北アフリカ、オーストリア、イタリアなどで戦い、軍の慰問団の一員となって慰問ショーの演出や出演をこなした〔Andreychuk 2005, p. 7.〕。 除隊後はニューヨークに戻り、たまたまある舞台のプロデューサーと出会ったことがきっかけで、1945年に『A Sound of Hunting』でブロードウェイで舞台デビューを果たす。舞台は3週間で打ち切りと言う失敗だったが、彼の元には7本の映画から出演依頼があった。 そして製作者のハル・B・ウォリスと知り合い、パラマウント映画と契約して、1946年、ユニバーサル・ピクチャーズの独立プロデューサーのマーク・ヘリンジャーに貸し出しされた、アーネスト・ヘミングウェイの短編を映画化である『殺人者』で映画俳優としてデビュー、主演ではなかったがビリングはエヴァ・ガードナーと同格でトップの扱い(事実上の主演はエドモンド・オブライエン)ストーリーに重要な役柄のため鮮烈な印象を残し、たちまちスター俳優の仲間入りとなる。 その後はフィルム・ノワールを中心に活躍。しかし、次第にハリウッドの映画製作に疑問を感じるようになっていたそんな頃、1947年に初舞台の際、共演した友人のサム・レヴィーンの紹介でハリウッドの映画製作者ハロルド・ヘクトと知り合う。この出会いがきっかけで1948年にハロルド・ヘクトと組んで独立プロ・ヘクト=ランカスター・プロを設立、ワーナー映画と契約して、フェアバンクスの冒険活劇を彷彿させるような『怪傑ダルド』『真紅の盗賊』などの娯楽話題作やアクション映画でヒットを飛ばし、アクションスターとして人気を博し、ワーナーと契約切れの後はユナイテッド・アーティスツと契約を結び更に組織を巨大化させて行く。 1953年にはベストセラー小説の映画化『地上より永遠に』に出演。この作品でアカデミー主演男優賞に初ノミネートされただけでなく、浜辺でのデボラ・カーとの情熱的なラブ・シーンは映画史に残る名場面となった。またゲイリー・クーパーを招いたアクション西部劇『ベラクルス』(1954)ではニヒルな悪役を演じて主演のクーパーを喰ってしまうほどの存在感を示す。 その後、ジェームズ・ヒルが製作チームに加わり、アクション映画だけでなく、1955年にはテレビ・ドラマの映画化で低予算で製作した『マーティ』がアカデミー作品賞、監督賞、脚本賞、主演男優賞を受賞し大ヒットとなった。この収益で1956年には大予算の娯楽作『空中ぶらんこ』を製作した。更に翌年は同じトニー・カーティスを相棒役に向えニューヨークのコラムニストの実態を描いた『成功の甘き香り』(1957)を製作・主演、このように娯楽性と芸術性を併せ持った映画の製作も、批評家から賞賛を浴び大きな成功を収め、1950年代にハリウッドで流行った俳優兼製作者の先駆け中心人物となった。 俳優兼製作者として同時期に活躍したカーク・ダグラスとは親友兼好敵手で、史実を元にした1957年の『OK牧場の決闘』では実在したワイアット・アープとドク・ホリデイ役で共演した。 この頃からが正に絶頂期で俳優としても役柄を広げ、1960年には偽伝道師を演じた『エルマー・ガントリー/魅せられた男』※で初のアカデミー主演男優賞を手にする。※ランカスター・ブルックス・プロ名義 1962年、ヘクト・ヒル・ランカスター・プロは財政的な理由から倒産するが、ランカスター自身はこれとは別にノーラン・プロを主催しており実質的プロデュースには『大列車作戦』、『インディアン狩り』、『大反撃』等がある。 翌1961年の『明日なき十代』で初めて組んだ監督のジョン・フランケンハイマーと意気投合し、実在した終身刑に処された鳥類学者を演じてオスカーにノミネートされた『終身犯』(1961)、ダグラスと再び共演した政治サスペンス『五月の七日間』(1963)、ナチスから名画の奪還を試みるレジスタンスの活躍を描いた『パリ開放』、20周年記念大作でもある『大列車作戦』(1964)、スカイダイバーたちの恋と友情を描いた『さすらいの大空』(1969)の5本の映画で一緒に仕事をした。 また60年代中頃から70年代全般にかけてはヨーロッパ映画で重用され、芸術的、美術的な名作に多数主演。ルキノ・ヴィスコンティはたっての願いで1963年の『山猫』や1974年の『家族の肖像』に、ルイ・マルは『アトランティック・シティ』(1980)、ベルナルド・ベルトルッチは『1900年』(1976)にランカスターを招き、ランカスターも期待に応え重厚な演技を披露した。1968年の『泳ぐひと』では友人のプールを泳ぎながら自宅を目指す男を演じ、映画はアメリカン・ニューシネマの一本として支持を得た。 1970年のオールスター・キャストのパニック映画『大空港』では旅客機墜落の危機に直面した空港総支配人を演じて往年のタフガイぶりを披露。映画もその年最大のヒットを記録した。 また反戦主義者であったことから政治活動にも積極的に参加、『ワイルド・アパッチ』(1972)、『ダラスの熱い日』(1973)、『合衆国最後の日』(1977)などインディアン問題、人種差別、政治の腐敗などのメッセージ性の高い作品を製作または自ら出演した。 『家族の肖像』以降は、映画界の重鎮的な老優として存在感を発揮。大作の主演のみではなく、TVムービーやB級映画、ミニシアター的な低予算映画においての特別出演待遇の助演を積極的にこなし、娯楽作品での悪役(主に上級管理職や将校)など幅広く出演。特に『カサンドラ・クロス』(1976年)、『ドクター・モローの島』(1977年)への出演が知られる。 1980年に心臓発作を起こし病気がちになってからは出演作は急激に減ってしまったが、それでも精力的に俳優活動を続け晩年まで息の長いキャリアを築いた。 1981年に入るとテレビ出演が多くなるも、『Cattle Annie and Little Britches』では撮影中に心臓発作に襲われたが、奇跡的に回復して映画は無事完成。回復後も精力的に俳優活動を続け、1983年の『ローカル・ヒーロー/夢に生きた男』、1989年の『フィールド・オブ・ドリームス』では物語の鍵を握るミステリアスな老人役に扮した。 パパラッチタブロイドのプライバシーの侵害や過剰報道を非常に嫌い家族を守りためにしばし鉄拳制裁を加える等の過激な面を持っていたが、子供の頃お世話になったニューヨーク市にある青少年育成センターには毎年欠かさず多額の寄付を続けた逸話や同センター出身者である後輩トニー・カーティスを自社独立プロに招き2年連続共演を果たしと言う人情家な面もあり、 友人の一人であるロック・ハドソンがエイズによる合併症で他界した1,985年末には同性愛者に対し『行動する前に考えよう』と言うキャッチコピーのポスターを作成して警鐘を鳴らした。 1991年にシドニー・ポワチエと共演したテレビ映画『裁かれた壁〜アメリカ・平等への闘い』が遺作となり、1994年に心臓麻痺が原因でこの世を去った。 三度の結婚歴があり、戦線で知り合った二度目の妻ノーマ・マリー・アンダーソンとの間にアンダーソンの連れ子を含め5人の子供の子宝に恵まれる。次男のウィリアムは脚本家として大ヒット作『がんばれ!ベアーズ』(1976)を手掛け、次女のジョアンナは製作者としてベット・ミドラー主演の『殺したい女』(1987)などを手掛けた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「バート・ランカスター」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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