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バーニー・ホワイトベアー(1937年9月27日 - 2000年7月16日)は、アメリカインディアンの酋長、民族運動家。 ==来歴== 1937年9月27日、ワシントン州東部にある「コルビル・インディアン保留地のインチェリウムで、「コルビル部族連邦」に属するシナイクスト族のバーナード・レイセスとして生まれた。母マリー・クリスチャンはシナイクスト族インディアン、父ジュリアン・レイエスはフィリピン人移民だった。バーニーのような、フィリピン人とインディアンとの混血は、合衆国では「インディピーノ(Indipino)」と呼ばれている。きょうだいはバーニーを会わせて6人いた。 コルビル部族連邦は、彼らの意思とは関わりなく、1872年にユリシーズ・グラント大統領によって「コルビル・インディアン保留地」を領土とし編成された、「コルビル」、「サン・ポイル」、「ネスペレム」、「シナイクスト」、「南オカノガン」、「エンチアット」、「メソウ」、「コロンビア」、「ウェナッチ」、「パルース」、「ネ・ペルセ」の11の部族の連合体である。 1939年に両親が離婚。母親は中国系移民のハリー・ウォンと再婚した。バーニーは祖父母に預けられ、4歳まで、保留地の最貧困地域でテント暮らしをしていた。後に彼は当時を振り返り、「私たちより貧しい人がいたとは思えない」と述懐している。 入学したオカノガンの公立高校では、インディアンの生徒はバーニーだけだった。バーニーはクラブ活動でトランペット奏者となり、人気を集めた。一度、ポールという白人の友人宅に一泊を誘われた。このとき、ポールの母親は彼の祖父の「ホワイトベアー」という名を侮辱し、彼を追いだそうとした。バーニーは級友たちの親から、日常的に「スコウ」〔インディアン女性に対する蔑称〕の子だとか「シワッシュ」〔アメリカ北西部でのインディアンに対する蔑称。もともとはチヌーク族を指す蔑称であるが、現在も公然と使われている〕といった蔑称を浴びせられ、嫌われていた。しかしポールは母親のこの態度に怒り狂い、母親に猛然と喰ってかかった。このことは彼の心に刻み込まれ、以後の調停者としてのバーニーの運動姿勢に強い影響を与えることになった。 高校を卒業した後、ワシントン大学に通うため、1950年代後半にバーニーはシアトルへ引っ越した。在学中、バーニーは母親とタコマのピュヤラップ川に出掛け、ピュヤラップ族の活動家、ボブ・サタイアクムと出会った。ボブは「インディアンの生得権」として、州の意向に逆らって公然と伝統的なサケの投網漁を行っていた。ボブとの出会いは、バーニーのインディアン権利運動のきっかけとなった。 1957年9月、米軍の第101空挺師団落下傘部隊に入隊し、グリーンベレーとなった。インディアンである彼は、軍隊で手ひどい差別と偏見に遭った。1959年に退役した後、ボーイング社に就職し、航空機整備士となったバーニーは、インディアンの権利運動に身を投じることを決意し、「レイエス」の名を捨て、「ホワイトベアー」と名を変更した。これは、母方の祖父である「ピク・アー・ケローナ」(「白い灰色熊」)に敬意を表したものである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「バーニー・ホワイトベアー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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