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バーバラ・スタンウィック : ミニ英和和英辞書
バーバラ・スタンウィック[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

バーバラ・スタンウィック : ウィキペディア日本語版
バーバラ・スタンウィック[ちょうおん]

バーバラ・スタンウィック(Barbara Stanwyck,1907年7月16日 - 1990年1月20日)はアメリカ合衆国ニューヨーク市出身の女優。本名はRuby Catherine Stevens。愛称はミッシー。
==生涯==

5人兄弟の末っ子として生まれる。父親はアメリカ人、母親はカナダ人〔Callahan 2012, pp. 5–6.〕〔"Ruby Catherine Stevens “Barbara Stanwyck”. ''Rootsweb''; retrieved April 17, 2012.〕。4歳の時に車の事故で母親を亡くし〔Callahan 2012, p. 6.〕、その葬儀の2週間後、レンガ職人の父親はパナマ海峡掘削の仕事に付き、そのまま帰ってこなかった〔Madsen 1994, p. 9.〕。4歳で孤児となって里子に出されるが、里親のもとを転々としたあと、10歳の時にコーラス・ダンサーの姉ミルドレッドに引き取られる。姉の恋人からダンスを教わる。13歳の時に学校を中退。電話会社などで働いていたが、15歳の時にジークフェルド・フォーリーズのコーラス・ダンサーになったのを足がかりにして、ついに26歳でブロードウェイで主役を張るまでになる。1927年にミュージカル『Broadway Night』のダンサー役で映画デビュー。しばらくは舞台に重点を置いていたが、1928年ボードビリアンフランク・フェイと結婚し、フェイと共にハリウッドに移った〔Nassour and Snowberger 2000. 〕ことがきっかけとなり、何作かの映画に出演したのち、1930年フランク・キャプラ監督の『希望の星』が成功により実力派女優として力を付けてゆく。その後、『奇蹟の処女』と『たそがれの女』と意気投合したキャプラ監督の作品に出演している。
ワーナーブラザーズ社と専属契約を交わし、『夜の看護婦』や『紅唇罪あり』などのワーナー映画のお家芸だったギャング映画に出演し、キャプラ映画やエドナ・ファーバー原作の『母』などで見せた今までの役柄とは違った一面を披露して更なる人気を博す。1933年には中国を舞台に繰り広げる壮大なメロドラマ『風雲のチャイナ』でキャプラと4度目のコンビを組み、1935年にはフェイと離婚。原因は彼が映画界で成功できずに酒に溺れ、いさかいの絶えなかったからだという。この時ワーナーとの契約からも解放されてフリーとなり、実在の女性ガンマンであるアニー・オークリーを演じたジョージ・スティーブンス監督の『愛の弾丸』に出演、『愛怨二重奏』では共演した二枚目俳優のロバート・テイラーと親密な関係となる。1925年のサイレント映画のリメイク『ステラ・ダラス』では、娘の幸せのために親権を放棄する母親を演じ、アカデミー主演女優賞に初ノミネートされる。
1937年の『This Is My Affair』ではテイラーとの再共演をへて、1939年にテイラーと2度目の結婚をした。公私共に充実し、セシル・B・デミル監督のウェスタン『大平原』やウィリアム・ホールデンの映画デビュー作である『ゴールデン・ボーイ』などに出演。1940年プレストン・スタージェスの脚本による『Remenber the Night』ではコメディにも出演。そして1941年にはスクリューボール・コメディーの大傑作といわれるスタージェス監督、脚本の『レディ・イヴ』に出演。ヘンリー・フォンダ相手に一歩も引けをとらず、映画はその年のニューヨーク・タイムズのベストテンの1位を飾り、またスタンウィックもイーディス・ヘッドが衣装を担当した華麗なドレスなどを着こなしてトレンド・セッターとしての地位を確立する。1941年にはキャプラと5度目でかつ最後のコンビ作となった『群衆』でゲイリー・クーパー扮するホームレスを架空の自殺志願者に仕立て上げる女性記者を演じる。同年にはハワード・ホークス監督の『教授と美女』でクーパーを誘惑するダンサーを演じて2度目のオスカーにノミネート。
1944年ビリー・ワイルダー監督によるフィルム・ノワールの傑作『深夜の告白』に出演。フレッド・マクマレイ扮する保険セールスマンをそそのかして夫殺しを手伝わせる人妻という今までの彼女のイメージからは想像も出来ないようなファム・ファタールを演じて、3度目のオスカーにノミネートを果たしただけでなく、1944年度のアメリカの女優の最高所得者となる。また人柄の良さでも知られ、うるさ型の女優が多いこの業界において男優からもスタンウィックとの共演を望む声が多く、名脚本家のハーマン・マンキウィッツにして「彼女と結婚して、バラを植え込んだ丘の上の小さな家に住む。疲れきって仕事が終わると、焼き上がったアップルパイを手に迎えてくれる、それが男の夢だね」と彼女の人柄の良さをこう評した。
その後も幅広い役柄をこなせる女優として活躍を続け、1948年の『私は殺される』では殺人計画を知った病弱な女性を演じて、これまた4度目にして最後のノミネートを受ける。1950年代に入っても安定した人気を保ち、『タイタニックの最後』のようなメロドラマから、『四十丁の拳銃』などの西部劇まで様々なジャンルの映画に出演。1954年の『重役室』ではジューン・アリソンをはじめとする豪華出演陣によるアンサンブル演技が評されて、共演者のフレドリック・マーチと共にヴェネツィア国際映画祭の審査員特別賞を受賞する。1951年にはテイラーと離婚し、『タイタニックの最後』で共演したロバート・ワグナーとその後、恋に落ちるが、かなりの年齢差がある2人のロマンスは長くは続くことはなかった。
1960年代に入ると『青春カーニバル』でエルヴィス・プレスリーと共演し、『The Night Walker』では元夫のテイラーとの再共演を果たすが、この頃から映画出演は減り始める。それを心配した友人でコラムニストのヘッダ・ホッパーからヨーロッパ映画の出演を勧められるも、「いいの、わたしはここ(ハリウッド)が好きなの」と答え、首を横に振ったという。そのかわりに今度は主にテレビを中心に活躍。1960年から1961年まではテレビ番組『バーバラ・スタンウィック・ショー』のホストと主演を務め、1965年からはじまり、日本でも人気を博した『バークレー牧場』では出演だけでなくプロデュースも務めて、新しい世代のファンを獲得しただけでなく、両作品でエミー賞を獲得する。
1978年のアカデミー賞授賞式ではデビューして以来の仲であるウィリアム・ホールデンと二人そろってプレゼンターをつとめ、1981年にスタンウィックがフィルム・ソサエティの特別賞を受賞した際は、ホールデンが会場にエスコートした。1982年にアカデミー名誉賞を授与され、1983年のテレビのミニ・シリーズ『The Thorn Birds』ではゴールデン・グローブ賞と3度目のエミー賞を獲得。1987年にはアメリカ映画協会から生涯功労賞が授与されたが、1990年カリフォルニア州サンタモニカ心不全によりこの世を去った。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「バーバラ・スタンウィック」の詳細全文を読む




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