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バーバラ・マクリントク : ミニ英和和英辞書
バーバラ・マクリントク[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

バーバラ・マクリントク ( リダイレクト:バーバラ・マクリントック ) : ウィキペディア日本語版
バーバラ・マクリントック[ちょうおん]

バーバラ・マクリントック(Barbara McClintock, 1902年6月16日 - 1992年9月2日)はアメリカ合衆国細胞遺伝学者トウモロコシを用いた染色体の研究で知られる。トランスポゾンの発見により1983年ノーベル生理学・医学賞を受賞している。
コネチカット州ハートフォードに生まれる。1923年にコーネル大学を卒業し、1927年に同大学で植物学の分野で博士号を得る。コーネル大学やNRCで研究員を務めた後、1936年から1941年までミズーリ大学で助手になる。1942年から1967年にワシントン・カーネギー協会の遺伝子部門のコールド・スプリング・ハーバー研究所の研究員となる。
マクリントックがトランスポゾンの存在を発見したのはDNAの構造が判明する以前の時代であり、余りに先駆的な学説に長らく学会で無視されていた時代もあった。その学説が後年の分子生物学の技術の発展により証明されるに至り、81歳と高齢でのノーベル賞受賞となったが、その一報を聞いたマクリントックは「まあ!」と一言つぶやいて、いつもの様にトウモロコシ畑に帰って行ったという。
また1970年には、ニクソン大統領よりアメリカ国家科学賞を、1982年には、利根川進(1987年ノーベル医学賞受賞者)と共にコロンビア大学よりルイザ・グロス・ホロウィッツ賞を授与されている。
== 経歴 ==

=== 生い立ち ===

バーバラ・マクリントックは医者トーマス・ヘンリー・マクリントック、ピアノ教師サラ・ハンディ・マクリントックの4人の子供の3番目として夫妻の結婚4年目に〔コネチカット州ハートフォードに生まれた。非常に早熟で「一人で何でもできる子」と呼ばれていた。両親はトーマスの医学部卒業直後に結婚しており〔、バーバラの幼い頃はまだ父の稼ぎが少なく、母もピアノ教師として家を空けることが多かったため、バーバラはよく一人で置かれた〔。弟が生まれると、バーバラは口減らしのため3歳頃から学校に上がるまでニューヨークブルックリン区のおば夫婦の家で育てられた。バーバラは一人で遊ぶことが多かったが、しっかりした子で、お転婆とも言われた。おば夫婦は鮮魚の行商をしており、幼いバーバラはそれに付き添い、後に「大変楽しかった」と思い出を述べている〔。ただしこの別れがやや影響し、その後も父とは仲良かったが、母とは若干不仲となった〔Keller, Evelyn Fox. (1983) ''A feeling for the organism''. W. H. Freeman and Company, New York. ISBN 0-7167-1433-7〕。
5歳になると家計は少しずつ好転し、バーバラも家に戻り、家族と共にブルックリンに移った。両親は子供の自主性を極端に重んじた。例えば、子供が帰宅後縛られることが無いように、学校に対して子供に宿題を出さないよう申し入れている。また、スポーツなどで男の子ばかりと遊ぶバーバラを注意する学校〔(近所のおばさんとする話もある〔)に対しても、好きにさせるよう申し入れている。さらにはバーバラが学校に行きたくないと言い出したときには1学期もの不登校を認めている〔。当時からバーバラの集中力はものすごく、多量の読書をこなし、時に瞑想にふけった。ピアノのレッスンを始めた時にはあまりの熱心さのため体を壊すことを心配した母親に止めさせられたほどである〔。
バーバラはブルックリンのに進み〔Boyer, David. "Neighborhood Report: Flatbush; Grads Hail Erasmus as It Enters a Fourth Century" , ''The New York Times'', March 11, 2001. Retrieved December 1, 2007.〕、そこで科学に興味を持ち、大学への進学を希望した。しかし、父トーマスが第一次世界大戦の従軍医に取られて家計的に苦しく、娘が高学歴を持てば婚期が遅れると思い(実際バーバラは死ぬまで独身だった)、母サラは反対した。実際、一度は職業紹介所に就職した〔。それでも帰国した父はバーバラを助け、1919年コーネル大学への進学を果たした。大学の授業料は免除となり、大学進学が決まると手続きに関して母親は熱心に協力した〔。当時、女性が大学で学ぶというのはまだ必ずしも一般的ではなかったが、コーネルは比較的女性に開かれた大学だった〔。後の両親の記憶によれば当時のバーバラは進学先をコーネル大学に限ると決め込んでいたが、バーバラは自分がなぜコーネルを選んだのか覚えていないと語っている〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「バーバラ・マクリントック」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Barbara McClintock 」があります。




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