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バーリンスキ : ミニ英和和英辞書
バーリンスキ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

バーリンスキ ( リダイレクト:ハーマン・バーリンスキ ) : ウィキペディア日本語版
ハーマン・バーリンスキ[ちょうおん]

ハーマン・バーリンスキ(''Herman Berlinski'' , 1910年8月18日 - 2001年9月27日)は、ドイツ出身のアメリカ合衆国作曲家
==生涯==

ライプツィヒ出身。両親はポーランドから移住したユダヤ人で、彼はイディッシュ語による正統派ユダヤ教の教育を受けた。また幼いころからピアノのレッスンを受けており、1926年年にライプツィヒ音楽院に入学した。専攻はピアノであったが、音楽理論ジークフリート・カルク=エーレルトに、対位法ギュンター・ラファエルに学んでいる。同級生にノルウェーゲイル・トヴェイトがおり、彼は1931年にトヴェイトのピアノ協奏曲第1番を演奏し注目を集めた。翌年に音楽院を卒業。この頃は聖トーマス教会の金曜日の演奏会に足しげく通い、ヨハン・ゼバスティアン・バッハマックス・レーガーの音楽に触れた。トーマスカントルカール・シュトラウベから教会音楽研究所でのオルガンのレッスンの誘いを受けたが、キリスト教への改宗が前提であったため、この話は実現しなかった。
1933年ナチス政権が成立するとパリに逃れた。パリではエコールノルマル音楽院ナディア・ブーランジェ作曲を、アルフレッド・コルトーピアノを学んだ。ブーランジェの教育を尊重していたものの、合わないものを感じ、2年後にスコラ・カントルムに転籍。スコラ・カントルムではジャン・イヴ・ダニエル=ルシュールに師事し、ダニエル=ルシュールを通じて「若きフランス」のメンバーと知り合った。なかでもオリヴィエ・メシアンとそのバックボーンにあるカトリックに感銘を受け、自らのバックボーンであるユダヤ教を強く意識するようになった。また1934年から「パリ・アヴァンギャルド劇場」の音楽監督を務めた。
1939年第二次世界大戦が勃発すると、フランス外人部隊に志願し、ベルギー戦線で戦った。しかしフランスがドイツに降伏すると、身の危険を感じ、1941年アメリカ合衆国に亡命した。
アメリカでは、ニューヨークでピアノ教師として生計を立てる一方、積極的にユダヤ人社会に接触し、ラザール・サミンスキーレナード・バーンスタインなど多くのユダヤ人音楽家と知り合った。1948年にはタングルウッド音楽センターでメシアンに作曲を学んだ。1951年からオルガニストとして活動し、多くのオルガン曲を作曲した。1953年よりユダヤ教神学院の大学院で聖歌と世俗曲に通じたヒューゴー・ワイズガルのもとで古代ユダヤ音楽を研究し、1960年に博士号を取得した。
1963年ワシントンD.C.のヘブライ信徒教会の音楽監督に就任し、1977年に引退するまで多くの典礼音楽を作曲した。引退後も自らの合唱団を設立し、30近くの合唱曲を作曲した。
作品には12のシンフォニア、管弦楽曲チェロ協奏曲、室内楽曲、合唱曲、オルガン曲などがある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ハーマン・バーリンスキ」の詳細全文を読む




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