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パザルジク’(ブルガリア語: / ''Pazardzhik'')はブルガリア南西部の町、およびそれを中心とした基礎自治体。パザルジク州の州都である。マリツァ川の両岸に広がり、その都市圏人口は約16万人である。 == 歴史 == パザルジクは、今日のウクライナのビールホロド=ドニストローウシクィイ( / ''Bilhorod-Dnistrovskyi'')近辺から1485年に移住してきたタタール人によって築かれた。この場所は、マリツァ川の左岸に位置し、この地域の市場に近く、生産性の高いこの地域の交易路であり、タタール・パザルジク(トルコ語:、タタール人の小さな市場)と名づけられた。この地理的好条件のために、タタール・パザルジクは急速に発展を遂げた。 鉄、皮革、コメの取引が栄えた。1787年、Gerard Kornelius Drishがパザルジクを訪れたとき、「ここの建物はその建築、大きさ、美しさにおいて、ニシュやソフィアなどにも勝る」と記している。 ニコライ・カメンスキー( / ''Nikolay Kamensky'')率いるロシア帝国の軍が1810年、包囲の後にパザルジクを占領したが、オスマン帝国に奪還された。19世紀中ごろ、パザルジクは人口およそ25,000人の都市となっており、工芸と交易の重要な拠点であった。火曜日と水曜日には大きな市が開かれた。電報のある郵便局が設置された。1837年、生神女聖堂が建造された。この聖堂はその建築と木造の彫刻によって、重要な国家的遺産となっている。19世紀の中ごろのパザルジクは文化的な拠点としても発展し、1847年には学校が、1848年には女子学校が、1868年にはチタリシテが開設され、1870年には女性連合Prosvetaが結成された。 露土戦争の間、町は退却するトルコ人の軍によって焼き払われた。パザルジクは1878年にロシア帝国の将軍ヨシップ・ヴラジミロヴィチ・グルコ( / ''Joseph Vladimirovich Gourko'')によって解放された。パザルジクは発展しマリツァ川右岸にまで拡大した。右岸地区には兵舎や農学校が建設された。 20世紀初頭から、パザルジクには工場や店舗、家屋が建造され、工業地区が形成されていった。1959年から1987年まで、パザルジクは地方の行政の中心都市であった。1999年以降、再びパザルジクは地方行政の拠点となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「パザルジク」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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