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パスカシウス・ラドベルトゥス : ミニ英和和英辞書 | パスカシウス・ラドベルトゥス
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パスカシウス・ラドベルトゥス : ウィキペディア日本語版 | パスカシウス・ラドベルトゥス パスカシウス・ラドベルトゥス(、785年 - 865年)は、フランス(フランク王国)の修道士でコルビー修道院長。 ==生涯== 彼の家族については何も知られていない、というのは彼は非常に幼いころに孤児となり、ソワソンの聖マリア女子修道院の入り口に捨てられていたからである。彼はそこで修道女たちに育てられ、彼女たちを、特に修道院長のTheodraraを非常に好きになった。Theodraraはコルビーのアダルハルドゥスおよびコルビーのワラの姉妹であり、この二人の修道僧(彼らはパスカシウスより前にコルビー修道院長だった人物でもある)をパスカシウスは深く尊敬した。812年頃、まだかなり若いうちに、パスカシウスは女子修道院を後にし、コルビー修道院で院長アダルハルドゥスの下、修道僧となった。彼はそこで、アダルハルドゥスの兄弟で彼の後に修道院長となるワラとも出会った。この兄弟の指導の下で、パスカシウスは修道生活に専心し、学ぶことと教えることに日々を費やした。826年にアダルハルドゥスが世を去ると、パスカシウスはワラがコルビー修道院長の地位を確保するのに尽力した。しかし836年にワラがなくなると、教会論に関してパスカシウスと大きく意見を異にするコルビーのラトラムヌスが次の院長となった。ラトラムヌスはパスカシウスのユーカリストに関する論考『主の肉と血について』(羅:De Corpore et Sanguine Domini)を論駁する同名の論考を著した。844年までに、パスカシウス自身が修道院長となった。その後10年経つと、彼は修道院長の座を辞し、自身の研究に戻った〔Cabaniss, pg 2-3〕。彼は修道院長をやめてすぐにコルビーを後にし、近隣のサン=リキエ修道院に移ってそこで数年間自発的な亡命生活を送った。彼が職を辞し亡命生活を送った正確な理由は不明だが、彼の行動は修道院内のコミュニティにおける党派的な論争によるところが大きいとみられている。彼と若い修道僧達との間での相互無理解が彼の行動を決定した可能性が濃厚とされる。彼は死ぬ前の、859年から865年の間にはコルビーに帰還した〔Matter, pg 149〕。 パスカシウスの遺体は初めコルビーの聖ヨハネ教会に葬られた。しかし多くの奇跡が報告されると、教皇の命によりコルビーの聖ペトロ教会に埋葬しなおされることになった〔Catholic Encyclopedia〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「パスカシウス・ラドベルトゥス」の詳細全文を読む
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