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パタゴン : ウィキペディア日本語版
パタゴン

パタゴン(英名:Patagon)とは、南アメリカ南端にいたとされる伝説の巨人族で、16世紀の探検家マゼランによって名付けられた人々である。現在の南米パタゴニアの地名は「パタゴンの住む土地」の意からきている。
==概要==



パタゴンあるいはパタゴニアの巨人は、16世紀から18世紀、まだパタゴニアの陸や海の様子が良く知られていない時代に最初に訪れたヨーロッパ人探検家たちによってヨーロッパに伝えられた伝説の巨人族である。彼らの身長は少なくとも普通の人間の2倍はあるとされ、いくつかの伝聞ではその身長は12-15フィート(3.7-4.6メートル)とも、あるいはそれ以上とも伝えられたとされている。18世紀末に否定されるまで、今から見ると現実にはありえそうも無いこの巨人達についての伝説がヨーロッパでは250年もの間にわたって語り継がれていた〔藤井『希望の大地パタゴニア』pp.4-6〕

彼らについての最初の言及は1519年に人類初の世界一周の航海に出発し、その途中で南アメリカの海岸を訪れたマゼランとその艦隊の乗組員達によるものだった。マゼラン遠征のわずかな生き残りの1人でマゼラン探検隊についての証言者であるアントニオ・ピガフェッタはそこで出会った先住民は普通の2倍の背丈であったと報告している〔〔会田『航海の記録』pp.504-525〕。
「停泊地の近くの海岸で、ある日突然、我々は踊り歌い頭に粉を振りまいていた〔意味が不明であるがピガフェッタの記述のままである。訳者によっては砂をかぶっていたとも訳す。〕裸の巨人を見た。提督(マゼラン)は部下の一人を彼のところに行かせ、友好を示すために同じ動作をさせた。その男は提督が待つ小島に巨人を連れてきた。巨人が提督のところに来たとき、巨人は大いに驚き、指を上にむけ、我々が空から来たのだと信じているようだった。彼は我々が腰までしか届かないほど背が高く、均整のとれた体つきをしていた」とアントニオ・ピガフェッタは書き残している〔〔。
ピガフェッタは、また、マゼランが彼らに''Patagon'' (ピガフェッタが使っていたイタリア語の複数形では''Patagoni'' )の名を授けたと伝えているが、しかし、ピガフェッタはその訳を述べていない。ピガフェッタの時代"Pata"は足もしくは足跡の意に由来しており、現在の通説ではパタゴニアは「大足人の国」の意味と解釈されている〔毛皮で作った履物で足が大きく見えたというのが現在の通説である。出典-会田『航海の記録』p.502及び-藤井『希望の大地パタゴニア』pp.4-6〕。しかしながら、語尾のgonが何を意味しているのか不明であり、この解釈には疑問も呈されている。ピガフェッタの記録や他のマゼラン艦隊の生き残り船員の証言ではパタゴンが巨人であり、毛皮の履物を履いていたとの記述はあるが、体に比べて特に足が大きかったという記述はない〔パタゴンの由来にはスペイン語およびポルトガル語でpata=足が由来の説の他に諸説がある。patagonはスペイン語のpata「足」ではなく先住民の発した言葉をマゼランが取ったとか、当時スペインで「大足の騎士」の小説が売れていて、そこにPatagonの名があるのでそこから命名したとかである。パタゴンの命名者のマゼランは遠征途中で死に、記録者のピガフェッタもパタゴンの名の由来について書き残していないので語源については永遠の謎のままである。〕〔〔ピガフェッタ『マゼラン最初の世界一周航海』pp35-63,275-281〕。
その後の新世界(南北アメリカ大陸)に関する16世紀から18世紀の地図には、この地域を ''regio gigantum'' 「巨人国」と銘打っているものや、地図のパタゴニアの位置に巨人のイラストが描かれているものが数多く見受けられる〔南アメリカ南部に''regio gigantum'' 「巨人国」と銘打っている地図は1534-36年Oronce Fine作、1544年Gemma Frisius,Peter Apian作、1590年Joannes Myritius作、1598年Zacharias Heyns作などがあり、地図上のパタゴニアの位置に巨人の説明あるいは巨人のイラストが入っているものは1570年アブラハム・オルテリウス作、1590年ハイヘン・フォン・リンスホーフェン作や1590年Petrus Plancius作、1544年Sebastian Cabot作、1600年Arnoldo di Arnoldi作、1604年Josua van den Ende作、1604年Luis Teixeira作、1606年Willem Blaes作、1609年Pieter van den keere作、1611年Jodocus Hondius作、1629年Niclaus van Wassennaner作、1630年Pieten Verbiest作、1642年J.Battista Cavazza作、1651年Petrua Plancius-Cornelis Danckerts作、1660年頃pieter van den keere作、1665年willem J Blaeu作をはじめ多数あり -出典 -チャールズ・ブリッカー『世界古地図』pp.205,217および『The MAPPING OF THE WORLD Early printed world maps 1472-1700』pp.2,90,200-201,228,244-245,256-257,262,274-275,280,286,294-295,324,352,362,382,412,434,454-、特に右に地図をあげたセバスチャン・ミュンスターによる「Cosmographia」(世界誌、あるいは直訳で宇宙誌)は1544年に発行され5か国語で約80年間計35版を重ねるベストセラーである。 -出典 合田『マゼラン』p.270,272 〕
1579年フランシス・ドレークの艦隊の船長、フランシス・フレッチャー(Francis Fletcher)はとても背の高いパタゴニア人に遭ったことを書いている。1590年代にはアンソニー・ニベット(Anthonie Knivet)はパタゴニアで12フィート(3.7メートル)の長さの死体を見たと主張している。さらに1590年代にはオランダ船に乗っていたイギリス人ウィリアム・アダムス三浦按針)はパタゴニア南部の島ティエラ・デル・フエゴを回っているときに船員と不自然に背の高い原住民との間に暴力的な出会いがあったと報告している。1766年にはジョン・バイロン(John byron)が指揮するHMSドルフィン号が世界一周の航海からイギリスに帰ってきたとき、その船員によってパタゴニアで9フィート(2.7メートル)の背丈の現地部族を見たとのうわさが流れた。
しかし、1773年に出された航海についての最終報告改訂版ではパタゴニア人たちは6フィート6インチ(1.98メートル)とされ背は高いが巨人というほどではないと記録されている。
バイロンによれば、可能性として彼らはパタゴニアの先住民族、今で言うテウェルチェ族に出会ったのだろうとされている。後世ではパタゴニアの巨人伝説は初期のヨーロッパ人航海者達の悪ふざけ、少なくとも誇張や誤報であったと考えられている〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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