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パトリック・ブライアン・バレル(Patrick Brian Burrell, 1976年10月10日 - )は、アメリカ合衆国・アーカンソー州ユーリカスプリングス出身の元プロ野球選手(外野手)。右投右打。 日本語メディアではパット・バールと表記されることもある。 == 経歴 == にボストン・レッドソックスからドラフト43巡目で指名されたが、契約せずマイアミ大学へ進学。6月のドラフトでフィリーズから1巡目(全体でも1位)指名され、5年総額800万ドルの長期契約で入団した。10月28日にはゴールデンスパイク賞を受賞した。 5月24日にメジャーデビューを果たし、規定打席到達は逃したが、111試合に出場。リーグの新人選手1位となる18本塁打・79打点・27二塁打を記録した。は155試合出場と完全にレギュラーの座を手中にし、27本塁打・89打点を記録。守備では外野手としてラウル・モンデシーとメジャー最多タイとなる18刺殺を記録した。 はさらに成績を伸ばし、打率.282・37本塁打・116打点を記録し、球団史上1986年のマイク・シュミット以来となる30本塁打・100打点を達成した。この年のオフに日米野球のMLB代表として訪日した際に、日本の変化球投手に簡単に三振を取られ無安打に終わっていた。 開幕前に6年総額5,000万ドル契約で契約延長した。しかし序盤から調子が上がらず、8月22日には通算100本塁打を達成したが、打率は自己最低の.209に留まった。本塁打も21本で、打点は昨年よりも少ない64打点に留まっている。翌は8月にメジャーで初めてとなる故障者リスト入りとなったが、少し調子を上げ、24本塁打・84打点を記録。2005年は悪球に手を出す癖を抑えられるようになり、その結果ナショナルリーグでは11位タイ、チームではトップの32本塁打を放ち、自己ベストとなる117打点を記録した。 は30本塁打・97打点をマーク。打率.256ながら114四球を選び、出塁率も初めて4割に達した。シーズン序盤こそ不調だったものの、7月2日以降は打率.302・22本塁打と復調し、7月22日から8月5日にかけて自己最長の14試合連続安打を記録するなど地区優勝に大いに貢献した。しかし、初出場となったポストシーズンではホームランこそ放ったものの、それを含めヒットは2本のみと完全に押さえ込まれ、チームも3連敗を喫してしまった。 6年契約の最終年となったは4月終了時点で打率.326・8本塁打・25打点を記録したが、その後は不調でシーズントータルで打率.250・86打点に終わった。本塁打数は以降最多の33本塁打を記録。プレーオフではディビジョンシリーズ第3戦まで無安打だったが、第4戦で2本塁打を含む3安打を放ち、チームはミルウォーキー・ブルワーズを破りリーグチャンピオンシップシリーズへ進出。リーグチャンピオンシップシリーズでは通算で3割を上回るを記録したが、タンパベイ・レイズとのワールドシリーズでは5戦の二塁打を1本だけで14打数1安打に終わったが、自身初のワールドチャンピオンとなった。 1月、タンパベイ・レイズと2年総額1600万ドルで契約。 しかし初のア・リーグや故障もあってか、不本意な成績に終わり、5月19日に解雇された。 5月29日にサンフランシスコ・ジャイアンツとマイナー契約。その後メジャー昇格し、18本塁打を記録。ジャイアンツの21年ぶりのリーグ優勝に貢献。リーグチャンピオンシップでは古巣のフィリーズとも対決した。テキサス・レンジャーズとのワールドシリーズでは13打数無安打11三振と不振に終わったが、自身2度目のワールドチャンピオンとなった。 2011年、シーズン終了後、FAに。 2012年1月30日、一部のアメリカのメディアが引退する意向だと報じ、その後正式に引退を発表。フィリーズはバレルのフィリーズ時代の功績を称え、One Day Contract(一日契約)を行うと発表。2012年5月19日、一日限りのマイナー契約を結び、フィリーズの本拠地・シチズンズ・バンク・パークで行われた対ボストン・レッドソックス戦で始球式を行い、ファンに別れを告げた。 フィリーズ時代に放った本塁打数251本は、フィリーズの選手としては歴代4位の記録となっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「パット・バレル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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