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パッヘルベル ( リダイレクト:ヨハン・パッヘルベル ) : ウィキペディア日本語版
ヨハン・パッヘルベル

ヨハン・パッヘルベル, ドイツ語発音: , , ,〔ドイツ語の"Pachelbel"の発音は「パッヘルベル」が近く、日本語音写において「パッフェルベル」は明らかな誤りであり、「パッヒェルベル」も誤りといえる。〕 1653年9月1日受洗 - 1706年3月9日(埋葬)〔没日に関する諸説については Welter, Kathryn J., ''Johann Pachelbel: Organist, Teacher, Composer, A Critical Reexamination of His Life, Works, and Historical Significance'', (Diss., Harvard University, Cambridge, Massachusetts. 1998), 14 を参照のこと。〕)は、バロック期ドイツ作曲家であり、南ドイツ・オルガン楽派の最盛期を支えたオルガン奏者で、教師でもある。宗教曲・非宗教曲を問わず多くの楽曲を制作、コラール前奏曲フーガの発展に大きく貢献したところから、バロック中期における最も重要な作曲家の一人に数えられる〔 〕。
パッヘルベルの作品は生前から人気が高かったため、師事する弟子も多く、またドイツ中部・南部の多くの作曲家の手本となった。現在では彼の作品で最も有名なのは「パッヘルベルのカノン」 であるが、これは彼が生涯に書いた唯一のカノンである。そのほか、シャコンヌ ヘ短調、トッカータ ホ短調などのオルガン曲、鍵盤楽器用の変奏曲集『アポロンの六弦琴』(『アポロの六弦琴』とも。''Hexachordum Apollinis'')などが知られている〔 "Pachelbel, Johann" ''The Concise Oxford Dictionary of Music'', Ed. Michael Kennedy, (Oxford University Press, 1996) ''Oxford Reference Online '', (2007年3月21日最終アクセス) (要購読)〕。
パッヘルベルの音楽は、ヨハン・ヤーコプ・フローベルガーヨハン・カスパール・ケルルといった南ドイツの作曲家や、ジローラモ・フレスコバルディアレッサンドロ・ポリエッティなどのイタリアの作曲家、さらにはフランス、ニュルンベルク楽派などの作曲家から影響を受けていたとされる。パッヘルベルの音楽は技巧的ではなく、北ドイツの代表的なオルガン奏者であるディートリヒ・ブクステフーデのような大胆な和声法も用いず、旋律的・調和的な明快さを強調した、明快で単純な対位法を好んで用いた。一方、ブクステフーデ同様に楽器を組み合わせた多様なアンサンブルの実験も行った。教会カンタータアリアなどの声楽曲においてもそれが行われたことは特筆に価する。ただ、それらに見られる管楽器を含む豪華な器楽編成は、パッヘルベルの作品中では例外的であり、器楽曲作品の大半は室内楽曲である。'', ドイツ語発音: , , ,〔ドイツ語の"Pachelbel"の発音は「パッヘルベル」が近く、日本語音写において「パッフェルベル」は明らかな誤りであり、「パッヒェルベル」も誤りといえる。〕 1653年9月1日受洗 - 1706年3月9日(埋葬)〔没日に関する諸説については Welter, Kathryn J., ''Johann Pachelbel: Organist, Teacher, Composer, A Critical Reexamination of His Life, Works, and Historical Significance'', (Diss., Harvard University, Cambridge, Massachusetts. 1998), 14 を参照のこと。〕)は、バロック期ドイツ作曲家であり、南ドイツ・オルガン楽派の最盛期を支えたオルガン奏者で、教師でもある。宗教曲・非宗教曲を問わず多くの楽曲を制作、コラール前奏曲フーガの発展に大きく貢献したところから、バロック中期における最も重要な作曲家の一人に数えられる〔 〕。
パッヘルベルの作品は生前から人気が高かったため、師事する弟子も多く、またドイツ中部・南部の多くの作曲家の手本となった。現在では彼の作品で最も有名なのは「パッヘルベルのカノン」 であるが、これは彼が生涯に書いた唯一のカノンである。そのほか、シャコンヌ ヘ短調、トッカータ ホ短調などのオルガン曲、鍵盤楽器用の変奏曲集『アポロンの六弦琴』(『アポロの六弦琴』とも。''Hexachordum Apollinis'')などが知られている〔 "Pachelbel, Johann" ''The Concise Oxford Dictionary of Music'', Ed. Michael Kennedy, (Oxford University Press, 1996) ''Oxford Reference Online '', (2007年3月21日最終アクセス) (要購読)〕。
パッヘルベルの音楽は、ヨハン・ヤーコプ・フローベルガーヨハン・カスパール・ケルルといった南ドイツの作曲家や、ジローラモ・フレスコバルディアレッサンドロ・ポリエッティなどのイタリアの作曲家、さらにはフランス、ニュルンベルク楽派などの作曲家から影響を受けていたとされる。パッヘルベルの音楽は技巧的ではなく、北ドイツの代表的なオルガン奏者であるディートリヒ・ブクステフーデのような大胆な和声法も用いず、旋律的・調和的な明快さを強調した、明快で単純な対位法を好んで用いた。一方、ブクステフーデ同様に楽器を組み合わせた多様なアンサンブルの実験も行った。教会カンタータアリアなどの声楽曲においてもそれが行われたことは特筆に価する。ただ、それらに見られる管楽器を含む豪華な器楽編成は、パッヘルベルの作品中では例外的であり、器楽曲作品の大半は室内楽曲である。
== 生涯 ==

=== 1653年~1673年: 幼年期から学生時代(ニュルンベルク、アルトドルフ、レーゲンスブルク) ===

パッヘルベルは1653年ニュルンベルクの中流家庭に、ワイン商のヨハン・(ハンス)・パッヘルベル(1613年ヴンジーデル生)〔Welter 前掲書, 9ページ。'':en:Musik in Geschichte und Gegenwart'' の "Johann Pachelbel" の項もみよ。〕とその後妻アンナ(アンネ)・マリア・マイアーの息子として生まれた。正確な誕生日は分かっていないが、9月1日洗礼を受けていることから8月下旬頃ではないかと見られている。
少年時代には、後に聖ゼーバルドゥス教会(ゼバルドゥス教会、ゼーバルト教会とも。ルター派)の聖歌隊先唱者となった音楽家・音楽教師ハインリヒ・シュヴェンマーから音楽の教育を受けた。同教会のオルガン奏者で、ニュルンベルク楽派の主要な作曲家でもあるゲオルク・カスパル・ヴェッカーにも師事していたとする文献もある〔遠山一行・海老沢敏編 『ラルース世界音楽事典 下』 福武書店、1989年、ISBN 978-482881600-5、p1281 ―― ただし「おそらく」と断っている。〕〔フェニックス企画編、中河原理監修 『クラシック作曲家辞典』 東京堂出版、2003年(第3版)、ISBN 978-449010316-8、p196-197〕〔栗原きよみ・秋山真理子・坂上昭子編集、石井宏監修 『西洋音楽史大系 改訂版 11:作曲家総覧』 学研、2002年、p37〕が、現在では疑問視されている〔Welter 前掲書, 55ページ, note 64。ヨハン・マッテゾンの1740年の追悼文も参照のこと。マッテゾンはなぜこれが嘘であるかを説明している。パッヘルベルのヴェッカーへの師事を記す史料は1732年の Walther による伝記のみであり、一次史料の証拠はない。〕。シュヴェンマーとヴェッカーはいずれも、ニュルンベルク楽派の創始者の一人であるヨハン・エラスムス・キンダーマンに師事していた者たちである。(なお、キンダーマンは一時期ヨハン・シュターデンの弟子であった人物)
パッヘルベルの生涯についての重要な文献とされている の著者ヨハン・マッテゾンによると、若い頃のパッヘルベルは音楽と学問の両面に優れていたという。パッヘルベルは初等教育を聖ローレンツ基幹学校とニュルンベルクの "Auditorio Aegediano" で修めたのち、1669年6月29日にアルトドルフ大学に入学、同年そこで聖ローレンツ教会のオルガン奏者に指名された。経済的な理由によって1年も経たないうちに大学を辞めざるを得なくなったが、彼は勉学を最後まで修めるため、1670年レーゲンスブルクのギムナジウム・ポエティクムの奨学生となった。その学校の教授たちは、パッヘルベルの学問の才能に感動したという。
パッヘルベルは学外で音楽を学ぶことも許されていた。担当の教師は、ヨハン・カスパール・ケルルの弟子カスパル・プレンツであった。ケルルはジャコモ・カリッシミをはじめイタリアの作曲家の影響を大いに受けていたため、プレンツを通じて当時のイタリアの音楽や、カトリック教会音楽への興味を持ち始めたのかもしれない。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ヨハン・パッヘルベル」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Johann Pachelbel 」があります。




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