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パトリック・ラフター(Patrick Rafter, 1972年12月28日 - )は、オーストラリア・クイーンズランド州マウント・アイザ出身の元男子プロテニス選手。1997年と1998年の全米オープンで大会2連覇を達成した選手である。ATPツアーで全米オープン2勝を含むシングルス11勝、ダブルス10勝を挙げた。身長185cm、体重86kg。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。 == 選手経歴 == ラフターは9人兄弟の7番目の子供として生まれ、1991年に19歳でプロ入りした。1994年から男子テニス国別対抗戦・デビスカップのオーストラリア代表選手になる。彼は遅咲きの選手で、現役生活の後半にこそ「世界最高のサーブ・アンド・ボレーヤー」として名実ともにオーストラリアの第一人者となった。 1997年の全米オープン初優勝は、彼のATPツアー2勝目であった。その決勝戦ではイギリスの左利きビッグ・サーバー、グレグ・ルーゼドスキーを 6-3, 6-2, 4-6, 7-5 で破った。オーストラリア人テニス選手の4大大会男子シングルス制覇は、1987年ウィンブルドン優勝のパット・キャッシュ以来10年ぶりの快挙であった。これを皮切りに、ラフターは世界トップ選手としての活躍を始める。 1998年の全米オープン決勝戦で、ラフターは4歳年下の後輩選手マーク・フィリプーシスとの「オーストラリア対決」を 6-3, 3-6, 6-2, 6-0 で制して大会2連覇を達成した。かつてラフターとフィリプーシスは1996年にウィンブルドンと全米オープンで男子ダブルスのベスト4に進出したほどの親友だったが、ラフターの全米オープン優勝以後は仲違いをしている。 1999年7月26日付の世界ランキングでラフターは1位を記録した。しかし翌週陥落しラフターの1位は1週で終わった。1997年、1998年の大会を連覇し、3連覇を目指して臨んだ1999年全米オープンの1回戦で、ラフターはセドリック・ピオリーン(フランス)と対戦中に故障を起こし、最終第5セット・第1ゲームをピオリーンに奪われたところで途中棄権を余儀なくされた。(ラフターのスコア:6-4, 6-4, 3-6, 5-7, 0-1 で棄権)2年連続大会優勝者が3連覇を目指した大会の1回戦で敗退したこのアクシデントは全米オープン大会史上初の珍事として、「100年で初めての大波乱」と言われた。 ウィンブルドンでのラフターは、2000年と2001年の2年連続で準優勝がある。2000年の決勝戦ではピート・サンプラスに、2001年はゴラン・イワニセビッチに敗れた。その他の4大大会では、1997年の全仏オープンと2001年の全豪オープンでベスト4進出があった。2001年全豪オープン準決勝では、対戦相手のアンドレ・アガシをセットカウント 2-1 と追い詰めながらも、左足に痙攣を起こして 5-7, 6-2, 7-6, 2-6, 3-6 の逆転負けに終わっている。通常なら棄権してもおかしくないところを、彼は最後までフルセットを戦い抜き、試合終了後は会場の地元ファンからスタンディング・オベーションが贈られた。どんな時でも全力でぶつかる姿と、オージーに多いといわれる“アイアンマン”ぶりを発揮したその試合は、大会のベストマッチと称された。 ダブルスでのラフターは、1999年全豪オープンでヨナス・ビョルクマン(スウェーデン)と組んだ優勝がある。1996年には、ウィンブルドンと全米オープンの2大会連続でマーク・フィリプーシスと組んで2大会連続のベスト4に進出していた。フィリプーシスと仲違いした後、ラフターはビョルクマンと組む機会が多くなり、1998年に全仏オープンとウィンブルドンの2大会連続でベスト4に入る。そして1999年全豪オープンの男子ダブルス決勝で、ラフターとビョルクマンはインドペアのマヘシュ・ブパシ&リーンダー・パエス組を 6-3, 4-6, 6-4, 6-7, 6-4 で破って初優勝を決めた。 ラフターは現役生活の間、甘いマスクで「最もセクシーなプロ選手」と称され、高い人気を誇った。2001年12月のフランスとのデビスカップ決勝ではシングルスでセバスチャン・グロジャンに 6-3, 7-6(6), 7-5 で勝利したが、通算2勝3敗でオーストラリアは優勝を逃した。この試合を最後に現役引退を表明した。その後2004年全豪オープンでと、また2014年全豪オープンにもレイトン・ヒューイットと組んでダブルスに出場したが、共に1回戦で敗退した。 2006年7月15日、パトリック・ラフターはガブリエラ・サバティーニらとともに国際テニス殿堂入りを果たした。2011年からはオーストラリアデビスカップチームの監督を務めている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「パトリック・ラフター」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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