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パドヴァのマルシリウス(伊:Marsilio da Padova、羅:Marsilius Patavinus、英:Marsilius of Padua、1275年あるいは1280年、1290年〔生年については論争があり、定かではない。〕 - 1342年あるいは1343年)は、中世イタリアの哲学者、神学者。主著『平和の擁護者』は、人民主権理論の先駆であると考えられている。 ==生涯== ===前半生=== マイナルディーニ家の出身で、一族は裁判官や公証人を輩出している家系。ボンマッティオ(Bonmatteo)を父としてパドヴァに生まれた。パドヴァ大学で医学を修め、1311年ごろにはイタリアで医者として活動をした。1312年ごろにパリに遷ってパリ大学で哲学や医学を学び、自然科学での名声に基づいて、1312年12月から1313年3月の間学長となった。1316年にはパドヴァに戻っており、医業に復帰した。その後放浪し、パリで医業に携わる傍ら、1324年には『平和の擁護者』(“''Defensor pacis''”)を著した。 ところで1322年から単独のローマ王となっていたバイエルン大公ルートヴィヒ4世と教皇ヨハネス22世の間で1323年から論争が始まっていた。前者がイタリアに皇帝代理を派遣して皇帝戴冠を目指したのに対し、後者が異議を唱え、1324年にはルートヴィヒ4世の破門とドイツ全土の聖務停止を宣言した。マルシリウスと彼の古い友人であるジャンダンのヨハネス〔Jean de Jandun(生年不詳 - 1328年)は中世ベルギーの哲学者、神学者。当時パリ大学教授でアヴェロエス主義者。かつては『平和の擁護者』の共著者ではないかと考えられていたが、現在は否定されている。〕はこの論争において、両者共にヨハネス22世に恩義があった〔マルシリウスはヨハネス22世によって1316年にパドヴァの教区の聖堂参事会員に任命されており、さらに1318年にはパドヴァの教区で最初に空席になった聖職禄を授けられている。ヨハネスもパリ近郊サンリス司教座の聖堂参事会員であった。〕にも関わらず、アヴェロエス主義的な立場からルートヴィヒ4世を支持し、その庇護を求めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「パドヴァのマルシリウス」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Marsilius of Padua 」があります。 スポンサード リンク
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