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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
パラサイト・ファイターは、戦闘機を爆撃機などに搭載して戦域まで運び、戦域で発進させて護衛の用途に使用しようという構想のもとに、製作または改造された戦闘機である。寄生虫戦闘機、寄生戦闘機、親子戦闘機、などとも呼ばれる。爆撃機と護衛戦闘機の航続距離の差を解決するために何度か計画されたが、空中給油が実用化されたことによって不要なものとなった。 == 概要 == 最初のパラサイト・ファイターは1918年にイギリス空軍が、ソッピース キャメルを軍用飛行船HMA23から発進させ、1925年にもR33とグロスター グリーブで実験された。その後、アメリカ海軍も飛行船(アクロンとメイコン)とF9C スパローホークで試験を行った。 最初にパラサイト・ファイターを運ぶ爆撃機の実験を行ったのは、ソ連の航空機設計家ヴラヂーミル・セルゲーエヴィチ・ヴァフミストローフで、1931年から試みられた。最終的なズヴェノーSPBでは、ツポレフTB-3によって5種類の戦闘機が運ばれることとなった。1941年には、TB-3がポリカールポフSPB(爆装したI-16)を運んでルーマニアのネグラ・ヴォダ橋の攻撃をするという実戦参加が行われた。 第二次世界大戦後期にドイツ空軍がMe328をパラサイト・ファイターとして実験したが実現しなかった。アラドE.381とSombold So 344は計画だけで終わった。また、「ファイター」ではなく運ばれる子機自身が爆弾だが、V1飛行爆弾をHe111から空中発射させることもした。また、親子が逆転し、有人戦闘機と無人爆撃機を結合したミステルも実戦投入された。 日本では一式陸上攻撃機から発進させる桜花も広い意味でのパラサイト・ファイターであった。子機の桜花は自力で離陸する能力を持たなかったのと、航続距離が非常に限られていたためである。最初の作戦で15機が投入されたものの全機が母機もろとも撃墜されるなど、当たれば効果はあったものの期待に全く応えることなく、いたずらに犠牲を出すだけに終わった。 東西冷戦の初期アメリカ空軍も、コンベアB-36爆撃機の護衛のためにいろいろなパラサイト・ファイターを計画した。たとえば、XF-85ゴブリンを爆弾槽に取り付ける方法やF-84サンダージェットを爆撃機の翼端に取り付ける方法(トムトム計画)である。これらの計画は試験のみで中止された。なお、偵察用のRF-84をB-36爆撃機の爆弾槽にとりつける「FICON計画」は、1955年から1957年にかけて配備が行われた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「パラサイト・ファイター」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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