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パッラーディオ建築(パッラーディオけんちく、表記はパラディオとも、)は、ヴェネツィアの建築家アンドレーア・パッラーディオ(1508年-1580年)の設計から派生しヒントを得たヨーロッパの建築様式である。今日パッラーディオ建築と認識されるものは、パッラーディオの当初の概念を展開したものである。パッラーディオの作品は古代ギリシアとローマの公式で古典的神殿建築から、その対称性、奥行き、価値観に強く基づいたものである。17世紀から、パッラーディオによるこの古典的建築の解釈はパッラーディオ主義と呼ばれる建築様式として採用された。それは18世紀末まで発展を続けた。 パッラーディオ建築は17世紀の半ばの短期間イギリスで人気が出始めたが、その開花時期はイングランド内戦の勃発によって、またそれに続いた緊縮財政の押し付けによって短命に終わった。18世紀初期、その流行はイングランドだけでなく、その影響を直接受けたプロイセンでも復活した。ヴェネツィアのフランチェスコ・アルガロッティ伯爵(1712年-1764年)がベルリンからバーリントン伯爵(1694年-1753年)に宛てて手紙を書き、バーリントン伯爵がイングランドで採用した建築様式を、プロイセンのフリードリヒ大王(1712年-1786年)に採用を勧めていると記した可能性がある〔James Lees-Milne, ''The Earls of Creation'' 1962:120).〕。しかし、ウンター・デン・リンデンにあるノーベルスドルフ設計のオペラハウスは、コーレン・キャンベル (1676年-1729年) のワンステッド・ハウスに基づき、1741年から建設されていた。18世紀の後半、この様式がヨーロッパでの人気を失くしたとき、北アメリカのイギリス植民地全体で人気が急上昇することとなり、サウスカロライナのドレイトン・ホール、ロードアイランドのニューポートのレッドウッド図書館、ニューヨーク市のモリス・ジュメル邸宅、メリーランドのアナポリスのハモンド・ハーウッドハウス、およびバージニアでトマス・ジェファーソンのモンティチェロとポプラ・フォレストなど、建築例が脚光を浴びた〔The Center for Palladian Studies in America, Inc., "Palladio and English-American Palladianism." 〕。 この建築様式は19世紀から20世紀初めにかけてヨーロッパで人気を博し続け、公共や地方政府の建物デザインに採用されることが多かった。19世紀の後半からは、オーガスタス・ピュージン(1812年-1852年)に代表されるゴシック・リヴァイヴァル建築と競うようになっていた。ピュージンはパッラーディオ建築が古代の寺院に起源をもつことを思い出させ、それがプロテスタントやイギリス系カトリックの礼拝にはあまりに異端的であると考えた〔Frampton, p. 36〕。しかし、建築様式としてパッラーディオ建築は人気を保ち変革を続けてきた。そのペディメント、対称性、調和比例は、今日の多くの建築物のデザインにも明らかに使われている。 == パッラーディオの建築 == パッラーディオが全体を設計した建物は全てヴェネツィア、あるいはヴェネト州にあり、特に「パッラーディオの都市」と案内書にもうたわれるヴィチェンツァには豊富な邸宅群がある。その中にはヴィラや、ヴェネツィアのレデントーレ教会のような教会がある。パッラーディオは彼の建築に関する論文の中で、ローマの建築家ウィトルウィウス (紀元前80年頃-紀元前15年以降) や、15世紀になってからのその信奉者レオン・バッティスタ・アルベルティ(1404年-1472年)によって定義された原則に従っていた。アルベルティはルネサンス期の特徴でもある装飾過多なものよりも、数値的比に基づく古典的ローマ建築の原則に固執していた〔Copplestone, p.250〕。 パッラーディオはヴィラを設計するときには常に、その立地に合わせていた。ヴィラ・カプラのように丘の上にある場合は、ファサードを四面とも同様に設計して、居住者があらゆる方向に素晴らしい眺めを満喫できるようにすることが多かった。またそのような場合にはポルチコが全面に造られて、居住者は太陽から守られながら周りの景色を十分に楽しめるようになっており、今日多くのアメリカンスタイルのポーチに見られるものに似ている。パッラーディオはポルチコに代わるものとしてロッジアを使うこともあった。これは極く単純に中断されたポルチコと表現することもでき、あるいは内部の1階分の部屋が要素に対して開かれている貫通された壁があるものとも言うことができる。時としてロッジアは、下のロッジアの頂部の上の二階部分に置かれることもあり、ダブル・ロッジアと呼ばれるものを創り出している。ロッジアはペディメントが載ったファサードでは重要な意味を与えられることもある。ヴィラ・ゴディはポルチコよりもロッジアに重点が置かれ、そのロッジアが母屋の各端で終わっていることも重要である〔Copplestone, p.251〕。 パッラーディオはそのヴィラの立面に古代ローマの神殿のファサードをモデルにすることが多かった。この神殿の影響は十字型のデザインに表されることが多く、後には彼の作品のトレードマークになった。パッラーディオのヴィラは通常3階建てで建てられた。田舎風の地階あるいは地上階にはサービスルームや小さな部屋が配された。その上はピアノ・ノビーレであり、ポルチコを通って一続きの外部階段を上がり、主要な応接室や寝室があった。その上には低い中二階が乗り、二次的な寝室や宿泊設備があった。ヴィラ内の各室の比率は、3対4あるいは4対5など単純な数値比で計算された。1つの家の中の異なる部屋はこれらの比で相互に関連付けられた。初期の建築家は一つの対称的なファサードを平衡させるためにこれらの形を使ったが、パッラーディオの設計は通常四角なヴィラ全体に関連付けられていた〔。 パッラーディオは農家としても、裕福な商人のオーナーが週末を過ごす宮殿のような建物としても、そのヴィラの二重の用途を深く考えていた。これら対称的で神殿のような家屋は平等に対称だったが、母屋とは離して、馬、農場の家畜、農産物を容れる低いウィングがあった。このウィングはコロネードでヴィラに付設あるいは繋がれていることがあり、機能的であるだけでなく、ヴィラにアクセントを与えるものとしてデザインされた。しかし、如何なる場合にも母屋の一部ではないという考えであり、18世紀にパッラーディオの追随者達が建物の一体的部分となるように採用したのがこのウィングのデザインと用途となっている〔Copplestone, pp.251–252〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「パッラーディオ建築」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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