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パラマリボ市街歴史地区 : ミニ英和和英辞書
パラマリボ市街歴史地区[ぱらまりぼしがいれきしちく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラマ : [らま]
 【名詞】 1. (1) (Dalai) Lama 2. (2) llama 3. (P), (n) (1) (Dalai) Lama/(2) llama
: [し]
  1. (n-suf) city 
市街 : [しがい]
 【名詞】 1. urban areas 2. the streets 3. town 4. city 
: [まち]
 【名詞】 1. (1) town 2. (2) street 3. road
歴史 : [れきし]
 【名詞】 1. history 
: [ち]
  1. (n,n-suf) earth 
地区 : [ちく]
 【名詞】 1. district 2. section 3. sector 
: [く]
 【名詞】 1. ward 2. district 3. section 

パラマリボ市街歴史地区 : ウィキペディア日本語版
パラマリボ市街歴史地区[ぱらまりぼしがいれきしちく]

パラマリボ市街歴史地区(パラマリボしがいれきしちく)は、スリナムの首都パラマリボのうち、コロニアル様式の町並みが残る区画を対象とするUNESCO世界遺産リスト登録物件である。パラマリボには、中南米に多く残るスペインポルトガルの旧植民都市と違い、例外的にオランダの様式とクリオーリョの様式が融合した独特の都市景観が残されている。木造の家屋が中心の建造物群は過去の大火で深刻な被害を受けたが、修復や再建に当たっても伝統的な様式を守ることに注意が払われてきた。スリナムでは中央スリナム自然保護区に次いで2件目の世界遺産であり、2002年に文化遺産として最初の登録を果たした。
== 歴史 ==
スリナムの植民地化は1499年スペイン人アロンソ・デ・オヘダとフアン・デ・ラ・コサによるワイルド・コースト発見にさかのぼるが〔布野 (2005) p.399〕〔、植民地化を巡って本格的に争ったのはイギリスとオランダであった〔ICOMOS (2002) p.1〕。パラマリボらしき名は1614年にオランダ人が先住民の村落であるパルマルボ (Parmarbo) ないしパルムルボ (Parmurbo) の近くに交易拠点を築いたという形で記録されているが、現在のパラマリボは、ブレダ条約でスリナムがオランダ領と決まった1667年に始まった〔。
その年にオランダ人は、パラマリボにを築いた。この要塞はイギリス人が築いた左岸の簡易な要塞を再建したものである〔布野 (2005) p.401〕。その周辺に町が形成されたが、当初は都市計画がなく、雑然とした町並みに過ぎなかったという〔。要塞と周辺の町がほぼ同時に建設されるのは、オランダの植民都市のパターンのひとつで、類例にはエルミナガーナ)、ゼーランディア台湾)などがあった〔布野・山田・山本 (2005) p.182〕。
スリナムは当初、要塞の名前にあるようにゼーラント州が支配権を持っていたが〔この経緯から、オランダ植民都市では普通ラインラント尺(1尺 = 314.8 mm)が用いられていたのに対し、パラマリボではゼーラント尺(1尺 = 301.4mm)が使用されていたと言われていた。しかし、少なくとも1772年の拡張の段階ではすでにゼーラント尺ではなくラインラント尺が用いられていたことが明らかになっている(山根・布野・青井・佐藤 (2005) p.60、布野 (2005) pp.406-407)。〕、1682年に権益がオランダ西インド会社に売却され、アムステルダム市とも出資する形で合名会社「スリナム特殊法人」 (1683年 - 1795年)が設立された〔布野 (2005) pp.399, 401〕。ソメルスダイクは初代総督としてパラマリボに都市計画を持ち込み、1683年から整然とした街が形成されていった〔。パラマリボに導入されていく宅地割などには、ヴォーバンの都市計画の間接的な影響が指摘されている〔布野 (2005) p.408〕。
それ以降、18世紀半ばまではゼーランディア要塞の西側に市域が拡大していった。あわせてゼーランディア要塞の補強のためにニーウ・アムステルダム要塞の建設も行われた〔〔Suriname (2001) p.11〕。ゼーランディア要塞周辺の建物は貝殻層(Shell ridge formations) の上に建てられたが、沼沢地からの隆起で形成された地盤のために、排水目的の運河も整えられた〔。主要な街路は運河と平行になるように設計され、中心部に設定された広場(現・)に面して、市庁舎を兼ねた改革派の教会堂も建てられた。当時はスリナムでのサトウキビ栽培のプランテーション開発が進められていた時期であり、市域の拡大の主たる目的は都市機能の整備にあった〔布野 (2005) p.404〕。この時期の町並みはコロニアル様式に典型的な格子状の街路を基調とするものであり〔、住居は主に木造であった。地元で調達可能な資材で住居を建てるという点ではカリブ海にオランダが築いた拠点都市のウィレムスタットの歴史地区と同じだが、乾燥した熱帯のウィレムスタットが珊瑚岩を使ったのに対し、水に恵まれたパラマリボは木を使うという違いが生まれた〔布野 (2005) pp.411-413〕。その形式のうち、少なくとも屋根やファサードの様式は北欧に見られる木造倉庫〔世界遺産に登録されているものとしては、ノルウェーベルゲン市内のブリッゲン地区がある。〕と共通するものがあるが、熱帯における強い日差しへの対応として切妻屋根を前に突き出し、それを支えるベランダを発達させるというアレンジが施されている〔布野 (2005) p.412〕。
独立広場周辺には総督官邸(現・大統領官邸)、政庁(現・財務省)などの建物が整備されていった〔布野 (2005) p.414〕。こうした政治権力を誇示する建造物群が集まる開放的な空間の存在は、広い地域を支配するにあたり、法治の象徴として植民地住民にその権威を可視的に示す必要性から要請されたものだという〔布野 (2005) p.417〕。それは同じ中南米のオランダ植民都市でも、キュラソー島の拠点にすぎなかったウィレムスタットの歴史地区には見られなかったものであり、植民都市の特色が島から大陸で変化したことを示している〔布野 (2005) pp.416-417〕。
18世紀後半以降、プランテーションの衰退によって、農園からパラマリボへと流入する人口が増え、それによる住居の増加がさらなる市域の拡大を促した〔布野 (2005) pp.402-403〕。18世紀半ばには西方向への拡大に対し45度で交わる格子状の街路が建設されていたが、人口増加によって、ゼーランディア要塞の北や、従来の市域の南などへの拡大が進んだ〔。このころまでに形成された建物の多くは1821年と1832年の大火で失われたが〔布野 (2005) p.403〕〔、街路の区画割りのほとんどは18世紀までに建設されたものが維持されている〔。
19世紀後半には、公式な奴隷制廃止(1863年)以降に黒人が多く流入し〔、今なお最大の人口集団を形成している〔布野 (2005) p.425〕。スリナムでは、衰退しつつあったとはいえ残っていたプランテーションの維持のため、インド人などの契約労働者を多く受け入れた経緯があるため、パラマリボの新興住宅地にはヒンドゥー教徒の印として旗竿などを掲げる家が多くある〔布野 (2005) pp.425-426〕。この点、ウィレムスタットユダヤ人セファルディム)の影響の大きさが顕著だったことと対比し、2つの植民都市の基本的な役割の違いが投影されているとも指摘されている〔布野 (2005) p.426〕〔パラマリボにもシナゴーグ「」 が存在する。しかし、これは世界遺産登録対象となった保全地域外にある(Surimane (2001) p.32)。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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