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パラマーラ朝(パラマーラちょう、英語:Paramāra dynasty)は、9世紀初頭から14世紀初頭にかけて、中西インドのマールワーを支配したヒンドゥー王朝。ラージプートの王朝でもある。首都はダール。 ==歴史== ===成立と独立=== マールワー地方は、デカン地方を支配していたラーシュトラクータ朝の王ゴーヴィンダ3世によって、9世紀初頭に獲得された領土であった〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.34〕。そのとき、ゴーヴィンダ3世はマールワーの統治を、パラマーラ族の族長ウペーンドラに任せたというのが、このパラマーラ朝の始まりであった〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.34〕。 とはいえ、北インドにはプラティーハーラ朝が存在し、デカンと北インドの間にあるこの地域をめぐり、ラーシュトラクータ朝とプラティーハーラ朝は幾度となく争った〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.34〕。パラマーラ朝もラーシュトラクータ朝の封臣(サーマンタ)として、不安定な支配を維持しながらも戦った〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.34〕。 10世紀後半、シーヤカ2世の時代、プラティーハーラ朝は徐々に衰退し、ラーシュトラクータ朝は南インドのチョーラ朝との争いに追われていた〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.34〕。彼はプラティーハーラ朝のマールワー領を奪い、西方ではマヒー川以西までを獲得し、マールワーの全領域を版図とした〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.34〕。 一方、主家のラーシュトラクータ朝はその間もチョーラ朝との争いに忙殺されていたが、クリシュナ3世が死にコーッティガ・アモーガヴァルシャが即位すると、シーヤカ2世は反旗を翻した〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.34〕。パラマーラ朝はラーシュトラクータ朝と交戦状態に入ったが、972年にはその首都マーニヤケータに迫るほどの勢いを見せた〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.34〕〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.19〕。このことはカリヤーニのチャールキヤ朝の創始や者タイラ2世が立ち上がる契機をつくった。 これにより、タープティ川以北の領土を獲得し、ラーシュトラクータ朝から独立を達成した〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、pp.34-35〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「パラマーラ朝」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Paramara 」があります。 スポンサード リンク
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