翻訳と辞書
Words near each other
・ パーディド (護衛空母)
・ パーディ・ジャコブ・モノの実験
・ パーディーズ駅
・ パーデュー・ファームズ
・ パーデュー大学
・ パーデュー社
・ パーデレ
・ パーデーク
・ パーデート郡
・ パート
パート2
・ パート2 (お笑いコンビ)
・ パートソング
・ パートタイマー
・ パートタイム
・ パートタイム・ラバー
・ パートタイム・ラヴァー
・ パートタイム労働法
・ パートタイム労働者
・ パートタイム当直医


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

パート2 : ミニ英和和英辞書
パート2[-つー]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

パート2 : ウィキペディア日本語版
パート2[-つー]

パート2』(-ツー''Numéro deux''、88分、35ミリフィルム)は、監督・脚本ジャン=リュック・ゴダール、共同脚本アンヌ=マリー・ミエヴィルによる、公営複合住宅(Ville nouvelle)に住むとある若い家族についての1975年製作のフランスドキュメンタリー映画実験映画である。'Numéro deux''、88分、35ミリフィルム)は、監督・脚本ジャン=リュック・ゴダール、共同脚本アンヌ=マリー・ミエヴィルによる、公営複合住宅(Ville nouvelle)に住むとある若い家族についての1975年製作のフランスドキュメンタリー映画実験映画である。'、88分、35ミリフィルム)は、監督・脚本ジャン=リュック・ゴダール、共同脚本アンヌ=マリー・ミエヴィルによる、公営複合住宅(Ville nouvelle)に住むとある若い家族についての1975年製作のフランスドキュメンタリー映画実験映画である。
== 概要 ==
1968年8月の「商業映画との決別宣言」以来、新左翼マオイストシネフィルの青年ジャン=ピエール・ゴランとともに結成した「ジガ・ヴェルトフ集団」として、匿名的な映画の集団製作を行なっていたジャン=リュック・ゴダールは、1972年、『ジェーンへの手紙』の完成をもって同グループを解散、前作『万事快調』のスチルカメラマンとして同作に参加したアンヌ=マリー・ミエヴィルとともに映画製作会社「ソニマージュ」を設立(設立第一作は『ジェーンへの手紙』)、1973年、住み慣れたパリからイゼール県グルノーブルに本拠地を移した。
心機一転のゴダールに、ジガ・ヴェルトフ集団解散後初の単独演出による新作を持ち込んだのは若手映画プロデューサージャン=ピエール・ラッサム。彼は共同製作による巨額の資金を調達・提供して、仏米の左翼俳優イヴ・モンタンジェーン・フォンダを主演に『万事快調』を製作した男。ラッサムは筆頭プロデューサーとして、ゴダールの処女長編とおなじジョルジュ・ド・ボールガールを担ぎ出した。1975年、このミエヴィルとの共同脚本第一作、「ソニマージュ」社の第二作にゴダールは『パート2』と名づけ、「『勝手にしやがれ』のパート2なのだ」と宣言する。
下記#解説にあるように、本作は『勝手にしやがれ』とは似ても似つかないドキュメンタリー作品である。ボールガールが1973年に設立したベラ・プロデュクシオン社と、ゴダール=ミエヴィルの「ソニマージュ」社、そして『勝手にしやがれ』を配給した「ソシエテ・ヌーヴェル・ド・シネマトグラフィ(SNC)」社の出資で製作、SNC社がフランス国内配給を行った。スターキャスティング作品だった『万事快調』とは異なり、まったくのノンスター、職業俳優は『万事快調』やアーヴィン・カーシュナー監督の『''S
*P
*Y
*S
''』のピエール・ウードレイと、ジョルジュ・フランジュ監督の『顔のない眼』のアレクサンドル・リニョーといった脇役俳優のみ。ボールガールは本作のあと、ゴダール=ミエヴィル共同監督作『うまくいってる?』(1978年)に出資、それ以降は1本たりともゴダールの作品に出資をしていない。
ラッサムはこの後、ジガ・ヴェルトフ集団時代に完成できなかった『勝利まで』(1970年)をゴダール=ミエヴィルに再編集させて、ゴーモン社に出資させて『ヒア&ゼア こことよそ』(1976年)として完成させ、さらにはゴダール=ミエヴィル共同監督作『うまくいってる?』(1978年)を製作。1972年のゴダール=ゴランの決裂以降、『勝手に逃げろ/人生』(1979年)で商業映画に復帰する以前、グルノーブル時代のゴダール=ミエヴィルの創作活動を資金的に支援した。
35ミリフィルムカメラとビデオカメラを駆使した撮影を行った撮影監督ウィリアム・リュプチャンスキーは、1970年、未完の『勝利まで』でゴダールと初めて仕事をした。本作はその雪辱戦であった。もともと1965年アニエス・ヴァルダの短編でデビューし、ジャック・ドワイヨンの初期短編やクロード・ランズマンの社会派ドキュメンタリー『''Pourquoi Israel''(なぜイスラエル)』(1972年)を撮っていた。『6x2』(1976年)、『二人の子どもフランス漫遊記』(1977年 - 1978年)といったゴダール=ミエヴィルのビデオ作品や『うまくいってる?』、そしてゴダールの商業映画復帰第一作『勝手に逃げろ/人生』に参加、その後は11年ぶりに『ヌーヴェルヴァーグ』(1990年)で撮影をして以来、ゴダール作品はない。
マルセル・モソッティは、1960年に映画プロデューサーピエール・ブロンベルジェのもとでジャック・ドニオル=ヴァルクローズ監督の『唇(くち)によだれ』でデビューした製作主任で、その後はゴダール旧知のヴェテラン俳優で映画監督のジャン=ピエール・モッキーの監督作を4本とジャック・タチ監督の『トラフィック』を手がけた人物。本作は初のゴダール作品かつドキュメンタリー作品、しかもビデオも駆使した作品であった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「パート2」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.