翻訳と辞書
Words near each other
・ パーニーパット
・ パーニーパットの戦い
・ パーニーパト
・ パーニーパトの戦い
・ パーニープーリー
・ パーニー・ヤトトゥ
・ パーニー・ヤートートゥー
・ パーヌルル国立公園
・ パーネリ
・ パーネル
パーネル・ウィテカー
・ パーネ・カラザウ
・ パーバティ・パチル
・ パーパス
・ パーパド
・ パーピュア
・ パーフィットプロダクション
・ パーフェクTV
・ パーフェクTV!
・ パーフェクティーチャー


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

パーネル・ウィテカー : ミニ英和和英辞書
パーネル・ウィテカー[かー]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
カー : [かー]
 【名詞】 1. car 2. (n) car

パーネル・ウィテカー : ウィキペディア日本語版
パーネル・ウィテカー[かー]


パーネル・"スイートピー"・ウィテカーPernell Whitaker、男性、1964年1月2日 - )は、アフリカ系アメリカ人の元プロボクサーバージニア州ノーフォーク出身。元WBAWBCIBF統一世界ライト級王者。その後、スーパーライト級ウェルター級スーパーウェルター級でタイトルを獲得した元世界4階級制覇王者。
ニックネームの「スイートピー(Sweet Pea)」について、ウィテカーは若いころ「Pete(ピート)」の愛称で親しまれており、アマチュアの試合で地元に凱旋したとき応援団が「Sweet Pete」と応援したのを地元記者が誤って地元紙に「Sweet Pea」と記載してしまったものが定着した。
プロ戦績46戦40勝17KO4敗1引き分け1ノーコンテスト。戦績が示すようにパンチ力はあまり無かった。その基本戦術は、相手のパンチを素早いフットワークとディフェンステクニックでかわして軽いパンチをヒットさせるものであったが、ファン・ナサリオをKOしたカウンターの左ストレートや、ラファエル・ピネダをダウンさせたボディブローなどの攻め手も持っていた。
== 来歴 ==
アマチュアボクシングでは、1982年AIBA世界ボクシング選手権銀メダル1984年ロサンゼルスオリンピックでは金メダルを獲得し、通算戦績は214戦201勝(91RSC)13敗。
1984年11月15日、プロデビュー戦で2回TKO勝ち。
1987年3月28日、NABF北米ライト級王座獲得。7月25日には初防衛に成功すると同時に全米同級王座も獲得した。
1988年3月12日、世界初挑戦。WBC世界ライト級王者ホセ・ルイス・ラミレスメキシコ)に挑むが、12回判定で敗れ王座奪取ならず。
1989年2月18日、世界再挑戦。IBF世界ライト級王者グレグ・ホーゲン米国)に挑み、12回判定勝ち。18戦目で最初の世界王座を獲得。
1989年8月20日、2度目の防衛戦。前年の初挑戦で敗れたラミレスと再戦し、12回判定勝ち。この試合はWBC世界ライト級王座決定戦も兼ねて行われたため、IBF王座防衛成功と同時にWBC王座獲得も果たした。
1990年8月11日、WBA世界ライト級王者ファン・ナサリオプエルトリコ)と統一戦を行い、初回KO勝ち。WBC・IBF王座防衛(WBCは3度目、IBFは5度目)を果たすと同時にWBA王座も獲得。主要3団体世界王座統一を成し遂げた。その後、3度の防衛に成功し、1992年4月、3団体の王座を同時に返上。
1992年7月18日、ジュニアウェルター級(現・スーパーライト級)での世界挑戦。IBF世界同級王者ラファエル・ピネダ(米国)に挑み、12回判定勝ち。2階級制覇に成功する。この王座は1度も防衛することなく返上。
1993年3月6日、3階級制覇を懸け、WBC世界ウェルター級王者ジェームス・マクガード(米国)に挑戦。12回判定勝ちを収め、偉業達成となった。
1993年9月10日の初防衛戦では87戦全勝のフリオ・セサール・チャベス(メキシコ)とウェルター級の規定体重を2ポンド下回る145ポンドのキャッチウェイトで対戦。フルラウンドの死闘の末、引き分けでWBC世界ウェルター級王座防衛。
3度防衛後の1995年3月4日、王座在位のままWBA世界ジュニアミドル級(現・スーパーウェルター級)王者フリオ・セサール・バスケスアルゼンチン)に挑戦。1度ダウンを奪われたものの、終始優位に試合を進め、12回判定勝ち。4階級制覇を成し遂げた。その後、WBA王座は返上し、以降はWBC世界ウェルター級王座の防衛回数を8まで伸ばした。
1997年7月14日、9度目の防衛戦でWBC世界ジュニアウェルター級王者オスカー・デ・ラ・ホーヤ(米国)と対戦し、12回判定負け。世界王座から陥落。
1997年10月17日、アンドレイ・ペレフと対戦。12回判定勝利を収めるが、試合後ドーピング検査でコカインが検出され試合結果がノーコンテストに変更となる。
1998年アイク・クォーティと試合が決まっていたが、ウェテカーが検査で再びコカインが検出されキャンセルされる〔。
1999年2月20日、世界王座返り咲きを期し、IBF世界ウェルター級王者フェリックス・トリニダード(プエルトリコ)に挑戦するも、12回判定負けで返り咲きならず。
2001年4月27日、2年ぶりの再起戦では自身初となる4回TKO負け。この試合を最後に引退した。
2001年8月12日、スピード違反と無免許運転で逮捕され拘置所で2日過ごした、その際に警官が車内を調査したところコカインを発見、2500ドルの保釈金を支払い保釈された。その後、ウィテカーはコカイン所持していたことを認めている。
引退から7年後の2008年世界ボクシング殿堂の選手部門で殿堂入りが決定し、11月15日にロサンゼルスのマリオットホテルにて殿堂入りのセレモニーが行われた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「パーネル・ウィテカー」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.