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第3代パーマストン子爵、ヘンリー・ジョン・テンプル(, 1784年10月20日 - 1865年10月18日)は、イギリスの政治家、貴族である。 ホイッグ党を自由党に改組した自由党初の首相であり、首相を2期務め(第一次:1855年-1858年、第二次:1859年-1865年)、またそれ以前には外務大臣を3期にわたって務めた(在職1830年-1834年、1835年-1841年、1846年-1851年)。内務大臣(在職1852年-1855年)を務めていた時期もある。 ウィリアム4世の治世からヴィクトリア朝中期にかけて主に外交の分野で活躍し、大英帝国の国益や英国民の利益が損なわれることを許容しない強硬外交を行ったことで知られる。ヨーロッパでは会議外交によって各国の利害を調整するバランサーの役割を果たしつつ、ヨーロッパ諸国の自由主義化・ナショナリズム運動を支援する自由主義的外交を行った。非ヨーロッパの低開発国に対しては砲艦外交で不平等条約による自由貿易を強要してイギリスの非公式帝国に組み込む「自由貿易帝国主義」を遂行した。大英帝国の海洋覇権に裏打ちされた「パクス・ブリタニカ」を象徴する人物である〔世界伝記大事典(1981)世界編7巻 p.438〕。 == 概要 == アイルランド貴族パーマストン子爵家の長男としてロンドンのウェストミンスターに生まれる(''→出生と出自'')。ハーロー校を経てエディンバラ大学、ケンブリッジ大学で学んだ。1802年に父の死によりパーマストン子爵位を継承した(''→少年・青年期'')。 1807年のにトーリー党(後の保守党)候補として立候補して庶民院議員に初当選した(''→庶民院議員選挙への挑戦'')。トーリー党政権が長く続いていた時期であり、彼も戦時大臣を1809年から1828年までという長期間にわたって務めた。彼はジョージ・カニングを支持するトーリー党内の自由主義派であったので、1828年にはカトリック問題などをめぐってトーリー党執行部と仲たがいし、他のカニング派閣僚たちとともに辞職した(''→戦時大臣'')。 その後、ホイッグ党に合流し、1830年に成立したホイッグ党政権では外務大臣を務めた。ベルギー独立問題や東方問題で会議外交を展開してヨーロッパ大国間の戦争を回避した(''→ベルギー独立をめぐって、→東方問題をめぐって'')。また阿片戦争を主導して清の半植民地化の先鞭をつけた(''→阿片戦争'')。しかしインド総督オークランド伯爵の方針を支持して起こした第一次アフガン戦争は散々な結果に終わった(''→第一次アフガニスタン戦争'')。ホイッグ党政権は1841年のに敗れて内閣総辞職に追い込まれ、彼も外相を退任することになった。 続く野党時代にはロバート・ピール保守党政権の外相アバディーン伯爵の弱腰外交を批判して活躍した(''→アバディーン伯爵の宥和外交批判'')。 1845年にジョン・ラッセル卿を首相とするホイッグ党政権が誕生するとその外務大臣に就任した。スイス内乱、1848年革命、第一次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争など自由主義・ナショナリズムの高まりの中で起こった様々な動乱の鎮静化に努めた(''→スイス内乱をめぐって、→1848年革命をめぐって、→サルデーニャのロンバルディア進攻をめぐって、→第一次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争をめぐって'')。また1850年には一国民の損害賠償取り立てを支援するためにギリシャに艦隊を派遣するというを起こした。この際に「古のローマ市民が『私はローマ市民である』と言えば侮辱を受けずにすんだように、イギリス臣民も、彼がたとえどの地にいようとも、イギリスの全世界を見渡す目と強い腕によって不正と災厄から護られていると確信してよい」という有名な演説を行って人気を博している(''→ドン・パシフィコ事件'')。しかし1851年にフランス大統領ルイ・ナポレオン(後のフランス皇帝ナポレオン3世)のクーデタを独断で支持表明した廉でジョン・ラッセル卿により外相を解任された(''→解任'')。 以降ホイッグ党内でラッセルに敵対する派閥を形成するようになり、保守党と連携してラッセル内閣を倒閣した(''→パーマストン派の形成とラッセルとの対立'')。その後保守党政権をはさんで、1852年12月にピール派・ホイッグ党・急進派三派による連立政権アバディーン伯爵内閣が成立するとその内務大臣として入閣したが、彼の関心は引き続き外交にあり、閣内の外交検討グループのメンバーとして外交に携わった。1853年にロシア帝国とオスマン=トルコ帝国の間でクリミア戦争が勃発すると、対ロシア開戦派として行動し、同戦争へのイギリス参戦に導いた(''→アバディーン伯爵内閣の内相'')。 やがてクリミア戦争遂行の象徴的人物となっていき、アバディーン伯爵内閣総辞職後の1855年2月には大命を受けてを組閣することとなった(''→第一次パーマストン子爵内閣'')。1855年にクリミア戦争に勝利し、ついで1856年にはアロー戦争を起こして清の更なる半植民地化を推し進めた(''→アロー戦争 '')。1857年のインド大反乱は徹底的に鎮圧した(''→インド大反乱の鎮圧'')。しかし1858年にはイギリス亡命政治犯によるフランス皇帝ナポレオン3世の暗殺未遂事件が発生し、フランス政府に要求されるがままに殺人共謀の重罰化の法案を提出したことで野党や世論の反発を買って内閣総辞職に追い込まれた(''→総辞職'')。 1859年には保守党政権打倒のためにラッセルと和解し、ホイッグ党二大派閥・ピール派・急進派の合同による自由党の結成に主導的役割を果たした。同年、保守党政権に内閣不信任案を突き付けて総辞職に追い込み、を樹立した(''→ラッセルとの和解と自由党の結成、→第二次パーマストン子爵内閣'')。イタリア統一戦争を支援してフランスと対立を深め、フランスとの開戦を煽って、ナポレオン3世を弱腰にさせて締結を成功させた(''→イタリア問題・英仏通商条約'')。しかし1864年の第二次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争の調停の会議外交には失敗し、プロイセン王国宰相オットー・フォン・ビスマルクがドイツ統一の最初の地歩を築くことを阻止できなかった(''→第二次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争をめぐって'')。 その翌年の1865年、首相在任中に病死した(''→死去'')。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Henry John Temple, 3rd Viscount Palmerston 」があります。 スポンサード リンク
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