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パーマストン子爵( )は、アイルランド貴族の子爵位。 18世紀から19世紀にかけてテンプル家が3代にわたって保有した。 == 歴史 == テンプル家は11世紀のまで遡ることができるといわれる旧家であり〔君塚(2006) p.13〕、イングランド中部レスターシャーに領地を持つイングランド貴族だったが、薔薇戦争で一度没落した〔中西(1997) p.81-82〕。 テンプル家が再度名声を得たのは、16世紀に軍人・政治家・文人として活躍したである〔。彼の息子サー・ジョン・テンプルはピューリタン革命で議会側に付いたが、後に国王側に寝返ったため、1660年の王政復古の際に枢密顧問官に列するとともにアイルランドに領地を持つようになった〔。 その息子のサー・ウィリアム・テンプルは近代随筆の先駆者、また外交官としてルイ14世の覇権に挑戦したことで名を馳せた〔中西(1997) p.81〕。彼はオランダ総督オラニエ公ウィレム3世(後のウィリアム3世)とヨーク公女メアリー(後のメアリー2世)の結婚を成立させ、後の名誉革命の伏線を作ることになった〔。 その弟は、アイルランド議会の下院議長を務めた〔。 その子であるが1723年2月9日に領地の名前に由来したアイルランド貴族爵位「カウンティ・オブ・ダブリンにおけるパーマストン子爵(Viscount Palmerston, in the county of Dublin)」と「カウンティ・オブ・スリゴにおけるマウント・テンプルのテンプル男爵(Baron Temple, of Mount Temple in the County of Sligo)」に叙されたのがパーマストン子爵位の始まりである〔。 この爵位は1757年6月10日に初代パーマストン子爵の孫にあたるに継承され、ついで1802年4月17日に第2代子爵が死去すると、その長男であるヘンリー・ジョンが第3代パーマストン子爵位を継承した〔君塚(2006) p.16〕。この第3代子爵は19世紀前半から中期にかけて首相や外務大臣を務めたことで著名である。しかし彼には嫡出子ができなかったので、1865年10月18日の彼の死とともにパーマストン子爵位は絶えることとなった〔君塚(2006) p.23〕。 2代子爵の代にアイルランドの所領から上がっていた収入は7000ポンド程度であり、これは当時の基準で言えば中小規模の貴族だった〔君塚(2006) p.13-14〕。しかし初代子爵はイングランド南部ハンプシャーのにも邸宅と土地を購入し、この屋敷は後にヘンリー・ホランド設計の華麗なゴシック様式の邸宅に改築され評判になった〔君塚(2006) p.14〕。 パーマストン子爵位も従属爵位のマウント・テンプルのテンプル男爵位もアイルランド貴族であり、グレートブリテン貴族や連合王国貴族の従属爵位は持っていなかったため、歴代パーマストン子爵はイギリス貴族院に議席をもたず、代わりに庶民院選挙に立候補することができた〔君塚(2006) p.18〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「パーマストン子爵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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