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パーヴェル・ヴァシーリエヴィチ・ルィチャゴフ(〔ラテン文字表記の例:Pavel Vasilievich Rychagov〕、1911年1月2日 - 1941年10月28日)はソ連の軍人。ソ連邦英雄。スペイン内戦や日中戦争、冬戦争で活躍したエースパイロットで赤色空軍司令官にまでのぼりつめるも、大祖国戦争の折に失脚、粛清された〔Michael Parrish. ''The Lesser Terror: Soviet State Security, 1939–1953''. Westport, Conn: Praeger, 1996. ISBN 0-275-95113-8. P. 71–76.〕。 ==経歴== ロシア帝国モスクワ県ニジニエ・リホボルィの農家出身。1928年、赤軍に入隊。1930年の卒業を経て、1931年のに入学〔。卒業後はジトームィルの第36航空旅団隷下の第109中隊に配属される。 1936年10月20日、スペイン内戦に参戦。10月28日、ルィチャゴフら25機のI-15と25人の航空兵、36名の整備士と20名の地上要員を載せた「カール・レピン号」が共和国陣地のカルタヘナに降り立った。(のちビルバオに15機増援)〔Maslov, Mikhail A. ''Polikarpov I-15, I-16 and I-153''. Oxford, UK: Osprey Publishing, 2010. ISBN 978-1-84603-981-2.〕。11月4日、部隊はマドリード上空にてユンカースJu 522機およびフィアット CR.322機を撃墜、一方の部隊の損害は0だった。以降11月中旬までに総計12機を撃墜する成果を上げた。 しかし勝利も束の間、16日、ルィチャゴフ自身の乗機が撃墜され、以降20日までの間に部隊の航空機の大部分が撃破や鹵獲されるという苦境に陥るも、戦闘機30機など本国からの大規模な増援で一転攻勢、以降終戦までに総計40機もの敵機を撃墜した〔。帰国したルィチャゴフは一躍英雄となり、12月31日にソ連邦英雄およびレーニン勲章を受章、また翌年にはわずか26歳で少将となった。 1937年12月12日、にポルタヴァ州代表として当選。 1938年、ソ連空軍志願隊部隊長となり日本軍との戦闘や中国空軍航空兵の指導にあたった。 1939年、第9航空軍司令官に就任、冬戦争を指揮〔。 1940年3月、中将に昇進、また空軍総局の第一副委員を経て10月28日に空軍総局局長に就任〔Hooton, E.R. ''The Luftwaffe: A Study in Air Power, 1933–1945''. London: Arms & Armour Press, 2010. ISBN 978-1-906537-18-0〕、また翌年2月にはヨシフ・スターリンとクリメント・ヴォロシーロフの推薦で国防人民委員部副委員となる。しかし4月14日、新型戦闘機への批判を理由に突如として解任される。 このころ、ソ連共産党政治局は「内部の怠慢」から空軍への疑念を強めており、その結果ルィチャゴフの他にも幹部数名が更迭されていた。さらに追い打ちをかけるように、5月にドイツ空軍輸送機の侵入を許したことは空軍および防空軍司令官らの粛清を決定づけた。ルィチャゴフと同じくスペイン内戦の英雄少将や中将、沿バルト軍管区司令官上級大将、国防人民委員部防空局長グリゴリー・シュテルンらが次々と逮捕、ルィチャゴフもドイツ軍侵攻数日後の6月24日に逮捕され、拷問の末に妻とともに処刑された。享年30。 1954年、名誉回復。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「パーヴェル・ルィチャゴフ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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