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パーヴェル・アレクセーエヴィチ・ロトミストロフ(、1901年7月6日 - 1982年4月6日)は、ソ連の軍人、戦術家。装甲戦車兵総元帥。ソ連邦英雄。第二次世界大戦中、第5親衛戦車軍の司令官としてプロホロフカの戦いに参加した。 ==経歴== トヴェリ県スコヴォロヴォ村(現トヴェリ州)出身〔Герой Советского Союза Ротмистров Павел Алексеевич 〕。鍛冶屋の家庭に生まれる。4年制学校で学び、卒業後はにて鉄道人夫としてヴォルガ川上流より垂木木材を運搬し、ロシア革命まではサマーラで荷役人夫として働いていた〔。 1919年、赤軍に入隊し、サマーラ労働者連隊に配属され、ブグリマ郊外の戦いに参加した。同年、全連邦共産党に入党。その後、工兵課程を修了し、西部戦線第16軍第42兵站大隊に派遣された。クロンシュタットの反乱の鎮圧に参加したが、負傷し、入院後帰郷した。 スモレンスク歩兵学校卒業後、リャザンの第149狙撃連隊の中隊政治委員となり、その後、ウラジーミルの騎兵偵察大隊の政治委員となった。1922年、全ロシア中央執行委員会軍事統合学校に入校。 1924年、第11狙撃師団第31連隊の小隊長。4年後、フルンゼ名称アカデミーで教育を受け、1931年の卒業後、チタのザバイカル狙撃師団本部第1班長に任命された。1933年、独立赤旗極東軍本部作戦課副課長に任命。1936年3月、第1班長。 1937年、隷下第63狙撃連隊長。1937年10月、モスクワのの戦術講師を務める。 しかし当時赤軍に吹き荒れていた大粛清の魔の手はロトミストロフにも及び、「人民の敵」として粛清された中将、少将らと関係があったとして独立赤旗極東軍第1師団司令部第2班の管理課長へと左遷、更に同課の解体とソ連共産党からの除名処分を受ける〔Мильбах В. С. Особая Краснознаменная Дальневосточная армия (Краснознамённый Дальневосточный фронт). Политические репрессии командно-начальствующего состава, 1937—1938 гг.. — СПб.: Издательство Санкт-Петербургского университета, 2007. — С. 99. — 345 с. — 1000 экз. — ISBN 978-5-288-04193-8.〕。しかし数か月後、より党への復帰が認められ、除名処分から戒告処分に減刑された。 1939年、戦車の運用における理論が評価され、博士候補の学位を取得。1940年冬戦争勃発に伴い北西戦線の後方支援部隊指揮官に任ぜられるが、本人の希望で隷下第35軽戦車旅団の大隊長となり、ヴィボルグにてマンネルハイム線突破戦に従事。この功績が評価され、12月、沿バルト特別軍管区第3機械化軍団第5戦車師団の副師団長に任命。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「パーヴェル・ロトミストロフ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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