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マローネイアのヒッパルキア(, 英語:Hipparchia)は、キュニコス派の哲学者で、紀元前325年頃に生きたテーバイのクラテスの妻。アテナイの通りで夫と同じ条件でキュニコス派的な貧困の暮らしをしたことで有名である。その生き方は、当時の立派な女性なら到底受け入れられない生き方だった。 ==生涯== ヒッパルキアは紀元前350年頃、トラキアのマロネイアで生まれた〔ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』vi〕〔『スーダ辞典』「ヒッパルキア」〕。 家族ともどもアテナイに移り、そこで兄弟のメトロクレス(Metrocles)がキュニコス派の哲学者テーバイのクラテスの弟子になった〔。ヒッパルキアはクラテスに恋し、思いを募らせ、両親にもしクラテスと結婚を反対するのなら自殺すると言った。両親はクラテスに娘を思いとどまらせてくれるよう頼んだ。クラテスはヒッパルキアの前に立ち、服を脱いでこう言った。「花婿はここで、財産はこれだけだ」〔。ヒッパルキアはそれでも十分幸せで、クラテスが着ているものと同じ服を着てキュニコス派の生き方を受け入れ、どこへでもクラテスに連れ添って現れた。クラテスは二人の結婚を「cynogamy(犬の交尾)」と呼んだ〔『スーダ辞典』「クラテス」〕。 夫婦はアテナイのストア・ポイキレ(彩色柱廊)の中に住み〔ガイウス・ムソニウス・ルフス(Gaius Musonius Rufus) 14. 4.〕、アプレイウスなど後の著作家たちは、彼らが白昼堂々公然とセックスする好色本を書いた〔 アプレイウス『精華集』2. 49.〕。 これはキュニコス派の恥知らずさ(anaideia)に一致しているが、それはともかく、ヒッパルキアが男の服を着て、夫と同じ条件で生きることを選んだという事実だけで、十分アテナイ社会には衝撃的なことだった。 ヒッパルキアは少なくとも二人の子供をもうけた。娘とパシクレスという名前の息子である〔〔。ヒッパルキアがいつどのように死んだかはわかっていない。ヒッパルキアの墓に刻むために書かれたのかも知れない、シドンのアンティパトロス(Antipater of Sidon)作と言われるエピグラムが残っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヒッパルキア」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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