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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ヒュー・ダフィー(Hugh Duffy, 1866年11月26日 - 1954年10月19日) は、19世紀のアメリカ・メジャーリーグでプレーした選手。主なポジションは中堅手だが、投手以外のポジションはすべてこなした。ロードアイランド州クランストン生まれ。右投げ右打ち。ニックネームは"Sir Hugh"(ヒュー卿)。メジャーリーグにおける史上3人目の三冠王となり、19世紀の参考記録扱いながら、シーズン打率.440を記録した。 == 略歴 == 1888年にシカゴ・ホワイトストッキングス(現シカゴ・カブス)からデビューし、2年目からレギュラーの右翼手となった。1890年年に結成されたプレイヤーズ・リーグに移籍し、シカゴ・パイレーツでリーグの最多安打と最多得点を記録する活躍を見せたが、プレイヤーズ・リーグは1年で解散。1891年にアメリカン・アソシエーションのボストン・レッズでプレーし、この年は110打点を上げリーグ打点王になっている。 1892年にナショナルリーグのボストン・ビーンイーターズ(現アトランタ・ブレーブス)に移籍、この頃には打率3割以上をコンスタントに打てる打者になっていた。更に1893年に投手-本塁間の距離を現在と同じ60フィート6インチとするルール改正によって、ダフィーの打率は更に上昇した。1893年には131試合で203安打を放ち.363の打率を残す。翌1894年は彼のキャリア最高の年で、125試合で237安打し、近代野球以前のメジャーリーグシーズン歴代最高打率.440を記録するなど、安打数、打点、本塁打、二塁打数でリーグ最高の数字を記録した。〔1894年はナショナルリーグ全体の打率が.309と、極端に打高投低の年でもあった。〕この年ダフィーが「三冠王」であったことは、後年になって記録を調べなおされた際判明する。打点はサム・トンプソンが147打点で1位であるとする説もある〔Baseball-Reference.com においては、サム・トンプソンが1894年のナ・リーグ打点王として公式に記録されている為、年度別打撃成績表には反映されていない。〕また、トンプソンはMLB公式記録では2位のままである。 同年のオフ、彼は当然年俸が上がると思って交渉の席についた。しかしオーナーのアーサー・ソーデンはなんとそれを拒否した。翌年彼が.352を打つと、ソーデンはようやく重い腰を上げた。しかしその額はたったの150ドルだった。そしてソーデンは彼をキャプテンに任命した。チームの規定で、器具がなくなっていたりしたら彼が代金を支払うことになっており、シーズン終了後彼は150ドル以上の代金を支払わされることになったという。 当時ボストンはダフィーと後に殿堂入りするトミー・マッカーシーの二人の外野手が突出した活躍をしており、彼らは"ヘブンリー・ツインズ"(ふたご座の意)と呼ばれていた。1895年にマッカーシーはチームを離れ、「ふたご座」の後釜にはビリー・ハミルトンが座る。彼らがチームを牽引し、1890年代にボストンは5度のリーグ制覇〔1892年は前後期制で行われ、ボストンは前期1位、後期2位の戦績だった。〕を成し遂げる。 ダフィーは1897年にリーグ最多の11本塁打を放つなど、1900年までボストンに在籍、その後1901年に、アメリカンリーグのミルウォーキー・ブルワーズ(現ボルチモア・オリオールズ)で監督兼任選手となるが、チームの成績は振るわなかった。先の移籍とあわせ、ダフィーは4つのリーグでプレーしたことになる。 1902年と1903年に一時メジャーリーグからはなれ、1906年にフィリーズで引退。以後ホワイトソックスやレッドソックス、マイナーリーグの監督等を歴任したが、優勝争いに顔を出すことは少なかったようである。1920年にマイナーリーグのトロントを指揮した時には、7割を超える勝率を上げたものの、2位に終わった。メジャーリーグに最後に関わったのは1939年で、この時はレッドソックスの一塁コーチを務めていた。 1945年、ベテランズ委員会によりアメリカ野球殿堂入り選手に選出された。1954年ボストンにて死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヒュー・ダフィー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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