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ビオコ島[びおことう]
ビオコ島(ビオコとう)は、アフリカ大陸中西部、ギニア湾の火山島〔SOUTHWEST COAST OF AFRICA ,,P61,2011-05-13閲覧。〕。赤道ギニア領であり、島内最大都市のマラボは同国の首都である。北緯3度45分、東経8度48分に位置する。 == 歴史 == 大航海時代に入り、インド航路を探検する途中、1472年にポルトガル人フェルナン・ド・ポー (Fernão do Po) によって発見され、フェルナンド・ポー島と命名された。ポルトガル人はビオコ島に砦を築き、領有した。1778年、ブラジル南部リオ・グランデ・ド・スルでスペインとポルトガルの紛争が発生し、ブラジルの権利をスペイン人から譲り受けることと引き換えにアフリカ本土海岸の一部(リオムニ)の権利とビオコ島の領有権をスペインに譲渡した(エル・プラード条約)。赤道ギニアの国土がビオコ島を含む五つの島とリオムニに分かれているのはこのためである。 1781年、スペイン人の占領部隊がビオコ島に到着するものの、疫病により全滅状態となる。その後、1883年クラレント修道会が修道士を派遣した。スペインは赤道ギニア一体の支配をクラレント修道会に代理させることにした。この後、ビオコ島は奴隷貿易の中継基地となった。西サハラと並び、スペインがアフリカに有する2つの植民地の1つとして栄える。 1823年から1843年まで、イギリスの賃借地となる。このときイギリス人は奴隷制度廃止の拠点として現在のマラボにあたる位置に町を建設した。1843年再び、スペイン領に戻り、イギリス人が建設した拠点はサンタイザベルと命名される。スペイン人は現地住民を強制的に徴用し、カカオプランテーションを広げた。このため、1898年と1902年には大規模な反乱が発生している。スペイン人は現地住民に対する一切の権利を認めなかった。 第二次世界大戦後、1958年に赤道ギニアはスペインの県となる。このとき現地住民はスペインの市民権を獲得した。1963年にはフェルナンド・ポー県(ビオコ島)とリオムニ県に分かれた。1966年、将来の独立が決まり、1968年10月12日赤道ギニア共和国として独立した。しかし、ビオコ島とリオムニは民族、言語も異なり、距離も離れているため、対立が発生。さらにスペインはカカオプランテーションの権利を留保し、軍も駐留していたため、問題が複雑化、1969年には全スペイン人が撤退し、社会インフラが停止した。ここで国連の支援が入り、スペインの援助が再開する。以降の歴史は、赤道ギニアの歴史の項を参照。なお、1973年から1979年まではマシアス・ンゲマ・ビヨゴ島(初代大統領であるマシアス・ンゲマに由来)と呼ばれ、その後、ビオコ島となっている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ビオコ島」の詳細全文を読む
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