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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ビコーペガサスはアメリカ合衆国で生まれ日本で調教された競走馬である。短距離戦での追い込みを特徴とし、追い込んで届かないレースも多く、重賞勝ちはGIII2勝にとどまったが、GIレースでも2着に3回入線している。 ※現役時代における馬齢は当時の表記(数え年)で統一する。 == 戦績 == 3歳となった1993年11月6日に京都競馬場の新馬戦(ダート1200m)で上村洋行が騎乗しデビュー。2着トロナラッキーに9馬身差をつけて圧勝。続くさざんか賞(500万下・ダート1400m)でも後のダート王ライブリマウントに5馬身差をつけて連勝した。 4歳となった1994年初戦で京成杯(当時は芝1600m)に的場均が騎乗し出走。芝初挑戦で、8頭立ての3番人気と、評価はそれほど高くなかったが、圧倒的一番人気であった阪神3歳牝馬ステークス勝ちのヒシアマゾンに2馬身差をつけて勝ち、デビュー3連勝を収めた。この年ヒシアマゾンに土をつけたのは本馬と、有馬記念のナリタブライアンの2頭のみであった。 その後骨折で休養し、復帰初戦となったニュージーランドトロフィーはヒシアマゾンの3着に終わって初の敗北を喫し、続く中日スポーツ賞4歳ステークス(当時は芝1800m)では単勝1.2倍の支持に応えられず、イナズマタカオーの2着に敗れた。古馬相手となってスワンステークス、マイルチャンピオンシップは7着、5着に終わったが、スプリンターズステークスでは、サクラバクシンオーが1分7秒1の当時としては破格のレコードで勝つ中、追い込んで2着に健闘した。 しかし、1995年年明けに再び骨折。5歳春は3戦し、栗東ステークス7着、安田記念4着、阪急杯は一番人気で12着と大敗に終わった。放牧を経て、秋になって武豊が騎乗し、初戦のセントウルステークス(GIII・芝1400m〔この年は阪神・淡路大震災の影響で京都で開催。〕)で1年9か月ぶりの勝利を収めた。この勝利で、マイルチャンピオンシップでは1番人気に支持されるが、トロットサンダーの4着に敗れる〔マイルチャンピオンシップは1984年の創設以来、この前年の1994年まで一番人気馬が11回連続して連対(2着以内)を果たしていたが、本馬がレース史上初めて連対を外した。〕。スプリンターズステークスでは横山典弘が初騎乗でヒシアケボノの2着に入線し、2年連続2着となった。 6歳(1996年)春はダービー卿チャレンジトロフィーで復帰し3着となり、短距離のGIに昇格した高松宮杯に出走。中団から脚を伸ばすも早めに先頭に立ったフラワーパークに届かず、三たび2着に終わる。安田記念は直線やや前が狭くなる不利もあり、5着に終わった。秋にはスワンステークスで始動し2着。2番人気のマイルチャンピオンシップはジェニュインの9着と惨敗。GI制覇の悲願達成を期したスプリンターズステークスでは、4コーナー手前で致命的な不利〔第3 - 4コーナー中間で、目の前でニホンピロスタディが故障し、逃げ場をなくした本馬は他の馬から完全に取り残される不利を受けた。〕があり、7着に敗れる。 7歳初戦にはJRA初のダートGIに昇格したフェブラリーステークスで3年ぶりにダートに出走も4着。シルクロードステークスでは日本レコードで駆けたエイシンバーリンの2着に入り、高松宮杯では2番人気に支持されたが10着。以後は、5戦して着順掲示板に載ることはなく、8歳の安田記念(13着)を最後に引退。1995年のセントウルステークス以降は勝ち星を挙げられないままでの引退となった。 最大でも442キロの小柄な馬体で、同レースに出走したことのある1歳下の大型馬ヒシアケボノとは100kg以上の差があった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ビコーペガサス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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