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ビシュバリクは、かつて天山山脈東部の北麓に存在した都市。9世紀から13世紀にかけて繁栄した天山ウイグル王国の首都だった。 漢語史料では別失八里のほか、鼈思馬〔丘処機『長春真人西遊記』〕、別石把〔耶律楚材『西遊録』〕とも表記される。いつごろから「ビシュバリク」の名で呼ばれたかは明らかになっていないが、8世紀のオルホン碑文には既にビシュバリクの名が刻まれている〔松田「ビシバリク」『アジア歴史事典』8巻、10頁、「ビシュバリク」『新編東洋史辞典』〕。名前はトルコ語で「5つの城」を意味し、唐代の史書ではトルコ語の訳に由来する「五城」とも書かれる。新疆ウイグル自治区ジムサル県北部の北庭故城がビシュバリクの遺構に相当する〔松田「ビシバリク」『アジア歴史事典』8巻、10頁、梅村「ウイグル人社会とウイグル文化」『中央アジア史』107頁。「ビシュバリク」(『新編東洋史辞典』)の執筆者は、王延徳が辿った経路を理由としてジムサル説に疑問を呈している。〕。 == 歴史 == 1世紀に栄えた車師後国の首都である金満城は、この都市の前身にあたると考えられている〔松田「ビシバリク」『アジア歴史事典』8巻、10頁〕。7世紀に入って東部天山地方は唐の支配下に置かれ、646年に天山山脈北麓に庭州が設置された。702年に庭州の府治が金満県からビシュバリクに移され、同年に北庭大都護府がビシュバリクに設置された。そのため中国からは長い間「北庭」と呼ばれた。北庭大都護府の設置後に中国からの移民が流入し仏寺が建てられたが、トルコ系遊牧民もなお放牧を行っていた。この地は唐、西突厥、吐蕃の係争の地であったが、840年頃〔梅村坦「オアシス世界の展開」『中央ユーラシア史』収録、132頁〕にキルギス族に追われて移住した漢北ウイグル族によって建国された天山ウイグル王国の首都となる。 1211年に国王バルチュク・アルト・テギンがチンギス・カンに臣従した後も一定の自治を保つが、カイドゥの乱が起きた後、1270年ごろにウイグル王コチガル・テギン(火赤哈児的斤)はビシュバリクを放棄して高昌に遷都する。戦争中であっても東西交易としての重要性は失われず、1281年にビシュバリクとカフカーズ山脈の間に30の駅伝(ジャムチ)が設置された。一時期元帥府が置かれたがカイドゥ王国が没落した後チャガタイ・ハン国の支配下に入り、チャガタイ・ハン国が東西に分裂すると14世紀末に東トルキスタンを領有するモグーリスタン・ハン国の中心地となった。 1391年4月にモグーリスタンのヒズル・ホージャ・ハンの使節が南京に到着した当時のモグーリスタン・ハン国はビシュバリクを首都としており、15世紀半ばまで明とビシュバリクの間で使節の往来が幾度もあった〔『明史』巻332、列伝224、西域4、別失八裏〕。ワイス・ハンの即位後にモグーリスタン・ハン国の本拠地は西方のイリバリク(亦力把力)に移される。 清が天山南北路を制圧すると行政の中心地がウルムチに移され、天山の中心都市としての役割を終える〔。1902年にかつて庭州と呼ばれた行政区画に孚遠県が設置され、1952年にジムサル県に改名されて現在に至る。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ビシュバリク」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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