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ビセンテ・マルティーン・イ・ソレル : ミニ英和和英辞書
ビセンテ・マルティーン・イ・ソレル[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ビセンテ・マルティーン・イ・ソレル : ウィキペディア日本語版
ビセンテ・マルティーン・イ・ソレル[ちょうおん]


ビセンテ・マルティン・イ・ソレールVicente Martín y Soler, 1754年5月2日 - 1806年1月30日)はバレンシア出身の18世紀の舞台音楽の作曲家。今日ではほとんど無名になっているものの、生前は歌劇やバレエ音楽の作曲家として著名で、とりわけオペラ・ブッファ作曲家として、モーツァルトと並び立つ存在として好意的に評価されてきた。近年になって再評価が進みつつあり、歌劇の上演及び録音が行われるようになった。
ボローニャに留学してジョヴァンニ・バッティスタ・マルティーニ師に音楽を師事。最初のオペラ《騙された先生 ''Il tutore burlato'' 》(1775年)は、ジョヴァンニ・パイジェッロの《フラスカーティの女 ''La frascatana'' 》(原作はフィリッポ・リヴィーニの戯曲)の改作であった。マルティーン=イ=ソレルはその台本をイタリア語からスペイン語に改め、サルスエラ《マドリッドの女、または騙された先生 ''La Madrileña o el tutor burlado'' 》として、1778年マドリッドで初演を行なった。
1777年ナポリを訪れ、最初のバレエ音楽サン・カルロ劇場のために作曲する。この頃は振付師シャルル・ルピックの協力を得て、以下の4つのバレエ・ダクションを作曲した。
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*ラ・グリゼルダ ''La Griselda'' (1779年アポストロ・ゼーノの台本に由来)
:
*サビーニ族の女たちの陵辱 ''I ratti sabini'' (1780年
:
*麗しのアルセーネ ''La bella Arsene'' (1781年
:
*タマシュ・クリ汗 ''Tamas Kouli-Kan'' (1781年、ヴィットリオ・アメデオ・チーニャ=サンティの戯曲に基づく)
また、2つの中間的な性格のバレエ(1778年の《ペルシャの花嫁 ''La sposa persiana'' 》と、ボーマルシェの戯曲に基づく1781年の《セビリアの理髪師 ''Il barbiere di Siviglia'' 》)も手懸けている。
ナポリでは、宮廷脚本作家のルイージ・セリオの力を得て、2つのオペラ・セリア《イフィジェニア ''Ifigenia'' 》(1779年)と《イペルメストラ ''Ipermestra'' 》(1780年)を作曲している。
1785年ウィーンに移り、ロレンツォ・ダ・ポンテの台本に作曲して国際的な大成功を収める。特に以下の一連のコミック・オペラが特に有名である。
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* 椿事 ''Una cosa rara'' (1786年、原作:ルイス・ベレス・デ・ゲバラの戯曲「山上の月 ''La luna de la sierra'' 」)
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* ぶっきらぼうな善人 ''Il burbero di buon cuore'' (1786年、カルロ・ゴルドーニの戯曲)
:
* ディアナの樹 ''L'arbore di Diana'' (1787年
マルティーン=イ=ソレルは、オペラ《椿事》によってワルツをウィーンに取り入れた人物であるとも見なされている。また《椿事》の宴の場面は、モーツァルトが《ドン・ジョヴァンニ》(1787年)の終幕の参考にし、旋律を引用している。さらに、モーツァルトは《ぶっきらぼうな善人》の挿入曲としてアリア「誰が知るでしょう、いとしい人の苦しみを」(K.582)と「私は行きます、でもどこへ」 (K.583)を1789年に作曲している。
1788年ロシア宮廷に招かれてサンクトペテルブルクに行き、エカチェリーナ2世の台本による《不遇の英雄コスメトヴィチ》(1789年)などのロシア語オペラと、シェイクスピアの『じゃじゃ馬馴らし』に基づく《礼儀正しい気紛れ娘 ''La capricciosa corretta'' 》(台本ダ・ポンテ、1795年)や《村祭り ''La festa del villaggio'' 》(1798年)などのイタリア語オペラを完成させた。
サンクトペテルブルク在住中に、《見棄てられたディドー ''Didon abandonée'' 》(1792年)、《クピドとプシュケー ''Amour et Psyché'' 》(1793年モリエールコルネイユキノー原作)、《タンクレディ ''Tancrède'' 》《ポリオルセートの帰還 ''Le retour de Poliorcète'' 》(1799年)といった数々の悲劇バレエを作曲した。
1806年、ロシア宮廷作曲家に在職中に急逝した。
== 外部リンク ==

*
* マルティン・イ・ソレル
* ダ・ポンテ
* academia/templates/pdf/an227.pdf Academia News No.227 (PDFファイル)
* 評伝 (英語・pdfファイル)
* 作品一覧 (独語)
* Operas




抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ビセンテ・マルティーン・イ・ソレル」の詳細全文を読む




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