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ビックバン・ベイダー ( リダイレクト:レオン・ホワイト ) : ウィキペディア日本語版
レオン・ホワイト[ちょうおん]

レオン・ホワイト1955年5月14日 - )は、アメリカ合衆国プロレスラーカリフォルニア州リンウッド出身。デビュー以来数々のリングネームを名乗っているが、ビッグバン・ベイダー()、ベイダーの名前で最も知られている。
日本で活躍した外国人選手の一人で、三冠ヘビー級王座IWGPヘビー級王座の両タイトルを獲得した最初のレスラーで、なおかつ唯一の外国人レスラーでもある。また世界タッグ王座IWGPタッグ王座GHCタッグ王座の3大タッグ王座を獲得した最初のレスラーでもある。
息子のジェシー・ホワイトもプロレスラー。''、1955年5月14日 - )は、アメリカ合衆国プロレスラーカリフォルニア州リンウッド出身。デビュー以来数々のリングネームを名乗っているが、ビッグバン・ベイダー)、ベイダーの名前で最も知られている。
日本で活躍した外国人選手の一人で、三冠ヘビー級王座IWGPヘビー級王座の両タイトルを獲得した最初のレスラーで、なおかつ唯一の外国人レスラーでもある。また世界タッグ王座IWGPタッグ王座GHCタッグ王座の3大タッグ王座を獲得した最初のレスラーでもある。
息子のジェシー・ホワイトもプロレスラー。'')、ベイダーの名前で最も知られている。
日本で活躍した外国人選手の一人で、三冠ヘビー級王座IWGPヘビー級王座の両タイトルを獲得した最初のレスラーで、なおかつ唯一の外国人レスラーでもある。また世界タッグ王座IWGPタッグ王座GHCタッグ王座の3大タッグ王座を獲得した最初のレスラーでもある。
息子のジェシー・ホワイトもプロレスラー。
== 来歴 ==
学生時代から全米オールスターのアメリカンフットボール選手として鳴らし、ジャパンボウルで来日。コロラド大学卒業後の1978年、NFLのロサンゼルズ・ラムズにドラフト3位で入団〔ロサンゼルス・ラムズ1978年ロースター 〕〔Stan Hansen and Vader 〕。チームは、そのシーズン、第14回スーパーボウルに出場した。ゆえに、本人の右手薬指には常に、その証となるスーパーボウルリングがはめられている〔1978年のNFLドラフトで入団記録はあるが、その後の試合出場記録が確認できず、第14回スーパーボウルのロースター登録もされていない。また、スーパーボウルリングは原則として優勝チーム関係者にしか与えられない為、本人がレプリカを所持して自称しているか、記述者がNFCカンファレンスチャンピオンリングをスーパーボウルリングと誤認している可能性がある事に注意されたい。また、1992年から1993年に掛けて同姓同名の選手がラムズに所属していた事にも注意が必要である。〕〔WWE Forgotten Legends 4: Big Van Vader | Bleacher Report - ベイダーがスーパーボウルに出場したとしている記事 〕〔ビッグバン・ベイダーのアメフト歴を調べてみました : MAJIK MIRROR - ベイダーのアメフト歴の検証記事 〕。
1979年7月、ひざの負傷により、リザーブリストに入った。
レギュラーシーズンの試合に出場することなく、1980年8月、ラムズから解雇された。1978年の入団から2年間で5回ひざの手術をくり返していた。
膝の怪我で引退後、ボクシング世界ヘビー級チャンピオンマイク・ウィーバースパーリングパートナーなどをしていたが、1985年にプロレス入りしベイビー・ブル(Baby Bull)のリングネームでAWAからデビュー。ブル・パワーのリングネームでヨーロッパCWAに転戦、オットー・ワンツを破りCWA世界ヘビー級王座を獲得。
その後マサ斎藤にスカウトされ、1987年12月にTPG(たけしプロレス軍団)の刺客、ビッグバン・ベイダー〔キャラクターデザインは獣神ライガーの作者でもある漫画家永井豪〕として新日本プロレスに登場。アントニオ猪木長州力IWGPヘビー級王座選手権が予定されていたところに TPG が割り込んだため観衆の不満が爆発し、最終的に暴動にまでなるが、ベイダー自身はその騒ぎの中、猪木から3分弱でフォールを奪う(混乱の末に猪木があっけなく負けたことが観衆の怒りに拍車をかけ、新日本はこの件で会場の両国国技館を管理する日本相撲協会から国技館の使用停止処分を受けている)。
1988年から新日本の常連外人として定着、IWGPヘビー級王座、IWGPタッグ王座を獲得したほか、1991年より並行して当時新日本と提携していたWCWにも登場。WCW世界ヘビー級王座を獲得している。
1993年5月、UWFインターナショナルに移籍。スーパー・ベイダーに改名し、1994年8月には高田延彦を破ってプロレスリング世界ヘビー級ベルトを奪取した。
1996年1月に新日本プロレスに参戦し、正月恒例の東京ドーム大会でアントニオ猪木と対戦するも敗北。翌2月には WWFに移籍。1997年9月には、ケン・シャムロックとの試合貸し出しの形でFMW川崎球場大会に参戦。1998年5月、全日本プロレスに初登場する(リングネームは「ベイダー」を使用)。そしてWWFとの契約解除後の同年11月より本格的に全日本プロレスに参戦。年末恒例の世界最強タッグ決定リーグ戦にも出場し、準優勝(パートナーはスタン・ハンセン、公式戦は全勝)。1999年3月、ジャイアント馬場没後初の三冠戦(王座決定戦)で田上明を破り三冠ヘビー級王座を獲得、4月にはチャンピオン・カーニバル優勝。5月の東京ドーム大会(馬場の追悼興行)で三沢光晴に敗れて三冠王座を陥落したものの10月に奪還。2000年2月にはスティーブ・ウィリアムスとコンビ結成し世界タッグ王座を奪取。
全日本プロレス分裂後の2000年10月からは、外国人勢では珍しくプロレスリング・ノアに参加。2001年10月にはスコーピオと組んで初代GHCタッグ王座を獲得。ノア離脱後はWJプロレスを経て、ハッスル、全日本プロレス、MAKEHEN、WWE、TNA、レッスルランドに登場。なお、新日本プロレス離脱後、日本国内では「スーパー・ベイダー」、「ビッグ・ベイダー」、海外では「Vader」などとリングネームを変更した上、マスクやリングコスチュームも違うデザインのものを使用していたが、2005年頃から再びビッグバン・ベイダーのリングネームを使用している。
2008年現在はコロラドでプロレスリングスクールの準備やプロレス以外のビジネスなど幅広く活動している。
2009年2月に元WWEのテストとともに来日し、ベイダータイム1, 2を開催。7月にはトレバー・マードックヘイリー・ヘイトレッドランス・ケイドらを伴い、ベイダータイム3, 4を開催した。ベイダータイム3での花束贈呈役は当時グラビアアイドルで翌年プロレス入りする愛川ゆず季であった。
2010年4月29日、ベイダータイム5において、自らの復帰戦を息子ジェシー・ホワイトの日本デビュー戦とともに開催し、往年のライバル藤波と18年ぶりに対戦した。
近年は、リングネームの商標登録を持つ新日本プロレスが他の複数団体との交流があるため、他団体でもビッグバン・ベイダーのリングネームを用いることが多い。また、日本でのマネジメントはベイダータイムプロモーション(後にビッグバンタイムプロモーションに改称)が担っている。
2012年では、TBSの「クイズタレント名鑑」の人気企画、「USC~史上最大ガチ相撲トーナメント」第三回に登場。また、この年の中盤では、WWE・RAW1000回目を祝うために、1000回目とその数回前の放送にレジェンドとしてサプライズ登場。観客に大歓声で迎えられ、若手のヒールであるヒース・スレイターと対戦し、勝利を飾った。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「レオン・ホワイト」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Big Van Vader 」があります。




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