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ビッグ・ダディ・ディンク : ミニ英和和英辞書
ビッグ・ダディ・ディンク
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ビッグ・ダディ・ディンク ( リダイレクト:サー・オリバー・フンパーディンク ) : ウィキペディア日本語版
サー・オリバー・フンパーディンク

サー・オリバー・フンパーディンクSir Oliver Humperdink)ことジョン・サットンJohn Jay Sutton1949年1月16日 - 2011年3月20日)は、アメリカ合衆国プロレスリングマネージャーミネソタ州ミネアポリス出身。芸名である "Humperdink" の原音に近い表記はハンパーディンクだが、本項では日本で定着している表記を使用する。
1970年代から1980年代にかけて、フロリダを中心にNWAの主要テリトリーで活躍。ハウス・オブ・フンパーディンクThe House of Humperdink)なるヒール軍団を組織し、悪徳マネージャーとして観客のブーイングを浴びた。キャリア末期は、WWFWCWでも活動した〔。
== 来歴 ==
少年時代からのプロレス・ファンであり、1965年に地元ミネアポリスの興行で会場の案内員を務めたことを機に業界入り。バーン・ガニアAWAにて、雑用係のリングボーイやセキュリティ・ガードとなって働きつつ、ニック・ボックウィンクルレイ・スティーブンスパット・パターソンボビー・ヒーナンディック・ベイヤーなどプロレスラーとの人脈を築いた〔。
1973年マッドドッグ・バションらが主宰していたカナダモントリオールのグランプリ・レスリングに活動の場を移し、レフェリーを経て、ブッチャー・バションの勧めでヒールマネージャーに転向〔〔。特徴的な赤毛のため当初はレッド・サットン(''Red Sutton'')と名乗り、後にドン・ジャーディンの提案により、ハンプティ・ダンプティを思わせる体型であったことからサー・オリバー・フンパーディンク(''Sir Oliver Humperdink'')と改名〔〔。ジェリー・ブラウンバディ・ロバーツハリウッド・ブロンズのマネージャーとなり、ミッドサウスやフロリダロサンゼルスなど各地を転戦した〔〔。
1976年にブロンズと別れ、エディ・グラハムの主宰するNWAフロリダ地区に定着。以降、スーパースター・ビリー・グラハムオックス・ベーカーアーニー・ラッドイワン・コロフザ・ファンクスなどのヒール勢をマネージメントし、同地区のヒーローだったダスティ・ローデスとの抗争を指揮した〔。1982年から1983年にかけては、ジム・クロケット・ジュニアの運営するNWAミッドアトランティック地区にて活動し、グレッグ・バレンタインポール・ジョーンズワンマン・ギャングらを担当〔。その後フロリダに戻り、ケビン・サリバンと結託してローデスやブラックジャック・マリガンと抗争を展開した〔。
彼自身はレスラーではないが試合にも時折出場しており、フロリダでは1980年にプレイング・マネージャーのロード・アルフレッド・ヘイズと抗争〔。1987年2月24日にはバッドニュース・アレンからNWAフロリダ・ヘビー級王座を奪取している(1981年には、NWAセントラル・ステーツ地区デューイ・ロバートソンを破りTV王座を獲得したともされている)。
1987年、長く主戦場としていたフロリダ地区がジム・クロケット・プロモーションズに買収されたことを機に、NWAを離れてWWFと契約〔。バンバン・ビガロのマネージャーとなり、共にベビーフェイスのポジションでハルク・ホーガンとも共闘した。WWFでは、リック・ルードと抗争していたポール・オーンドーフのマネージャーも務めている〔。
1988年にNWAへ復帰し、ヒールに戻ってサモアン・スワット・チーム(サムゥ&ファトゥ)などのマネージャーを担当。1990年代初頭のWCWでは、ビッグ・ダディ・ディンク(''Big Daddy Dink'')の名義でファビュラス・フリーバーズマイケル・ヘイズ&ジミー・ガービン)のローディーを演じた。しかし、彼はこのギミックに不満を持ち、当時のWCWの舞台裏における政治的な軋轢に疲弊したこともあり、1993年にプロレスリング・ビジネスから引退した〔。
2001年大動脈弁の置換手術を受け心臓ペースメーカーを移植。その費用は、プロレス関係者のOB会であるカリフラワー・アレイ・クラブの有志によって集められ、彼に寄付された〔。
2011年3月20日、肺炎による合併症で死去。〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Oliver Humperdink 」があります。




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