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ビーチャム=シャープの悲劇(、またはケンタッキーの悲劇)は、1825年にアメリカ合衆国ケンタッキー州で起こった殺人事件である。ジェレボーム・O・ビーチャム(Jereboam O. Beauchamp )は若い弁護士として、ケンタッキー州議会議員のソロモン・P・シャープを崇拝する者だったが、シャープは農園主の娘であるアンナ・クックとの間に非嫡出子をもうけたと申し立てされた。シャープはその死産児の父であることを否定した。後にビーチャムはクックと関係を持つようになり、クックはその名誉を守るためにビーチャムがシャープを殺すという条件で、ビーチャムとの結婚に合意した。ビーチャムとクックは1824年6月に結婚し、1825年11月7日早朝、フランクフォートにあったシャープの自宅で、ビーチャムがシャープを殺害した。 捜査によって間もなくビーチャムが殺人者であることが分かり、事件から4日後にグラスゴーのビーチャムの自宅で逮捕された。裁判に掛けられて有罪となり、絞首刑を宣告された。ビーチャムはその行動の正当性について著述するために死刑の延期を認められた。アンナ・クックは殺人の共同謀議で裁判に掛けられたが、証拠不十分で無罪となった。アンナはビーチャムを献身的に愛していたので、独房でもビーチャムと共に過ごすこととなり、処刑の少し前にアヘンチンキを飲んで心中を試みた。しかしこれは失敗した。処刑の日の朝、二人は再度自殺を試みた。このときはアンナが独房の中に持ち込んだナイフで刺すという手段だった。心中を図った二人を見つけた守衛は、ビーチャムが刺し傷で絶命してまわないよう大急ぎでビーチャムを絞首台へと運び、絞首刑を執行した。ケンタッキー州では法によって処刑された最初の者となった。アンナ・クックは夫が処刑される直ぐ前に刺し傷で死んだ。二人の遺志に従い、同じ棺桶で埋められるときに互いを抱擁するように遺骸が納められた。 ビーチャムがシャープを殺害した主要な動機は妻の名誉を守るためだったが、シャープの政敵が犯罪を唆したという疑いが挙がってきた。シャープは、ケンタッキー州における旧裁判所・新裁判所論争のときに、新裁判所派の指導者だった。少なくとも1人の旧裁判所派が、シャープは、子供が混血であり、家族の奴隷の息子であると主張することで、クックの息子の父親であることを否定したと言っていた。シャープがそのような主張をしたかどうかも検証されていない。新裁判所派は、この申し立てがビーチャムの怒りを掻き立てるように仕組まれ、殺人に駆り立てたと主張した。ビーチャム=シャープの悲劇は、エドガー・アラン・ポーの未完の書『ポリティアン』や、ロバート・ペン・ウォーレンの『ワールド・イナフ・アンド・タイム』(1950年)など多くの文学作品に使われることになった。 == 背景 == ジェレボーム・O・ビーチャムは1802年にケンタッキー州バーレン郡で生まれた。ベンジャミン・サーストン博士の学校で教育を受け、18歳の時に法律を学ぶ決心をした。グラスゴーやボーリンググリーンで法律実務を行う弁護士達を観察する中で、ソロモン・P・シャープの能力に特に感銘を受けた。シャープはケンタッキー州議会に2度選出され、アメリカ合衆国下院議員も2期務めていた。1820年、農園主の娘アンナ・クックが、シャープは死産になった子供の父であると主張したときに、ビーチャムはシャープに対する幻想から覚めた。シャープは父であることを否定し、世論もシャープに味方した。恥をかいたクックはボーリンググリーン郊外の母のプランテーションで世捨て人になった〔Cooke, pp. 126–127〕。 ビーチャムの父はクックの領地から1マイル (1.6 km) 離れた所に住んでおり、ビーチャムはアンナに会いたいと考えた。ビーチャムはアンナの蔵書から本を借りることにこと寄せて何度も訪問するうちに、アンナの信頼を得た。1821年夏までに二人は友人となり、交際を始めた。ビーチャムは18歳であり、アンナは少なくとも34歳にはなっていた。この交際が深まると、アンナはビーチャムに、二人が結婚できる前に、ビーチャムがソロモン・シャープを殺さねばならなくなると伝えた。ビーチャムは彼女の要請に同意し、シャープを殺害する望みを表明した〔Cooke, pp. 127–128〕。 当時好まれた名誉の殺人の方法は決闘だった。アンナが、シャープは決闘に応じるはずがないと警告したにも拘わらず、ビーチャムは支持者を得るためにフランクフォート市に行った。シャープは州知事ジョン・アデアから州の検事総長に指名されたばかりだった。その会見に関するビーチャムの証言では、シャープを脅して辱め、シャープが命乞いをし、シャープが決闘に応じるまで毎日ビーチャムがシャープを馬の鞭で叩くと約束したと述べていた。ビーチャムは2日間フランクフォート市に留まって決闘を待った。しかしシャープが町を離れたことが分かり、ボーリンググリーンに向かったと聞かされた。ビーチャムは馬でボーリンググリーンに向かったが、シャープはそこに居らず、予定もないことがわかっただけだった。シャープはビーチャムの最初の試みから救われた〔Cooke, pp.128–129〕。 アンナは自分でシャープを殺す決心をした。シャープが仕事でボウリンググリーンに来た次の機会に、ビーチャムの行動を非難し、彼との接触を全て止めたという手紙をシャープに送った。アンナはシャープが町を離れる前にプランテーションの彼女を訪ねてくれるよう依頼した。シャープはこれが罠ではないかと疑ったので、手紙を持ってきた配達人を問い質した。シャープは指定された時刻に彼女を訪ねるつもりだと回答した。ビーチャムとアンナはその訪問を待っていたが、シャープは来なかった。状況を調べるためにビーチャムが馬でボーリンググリーンに向かうと、シャープは2日前にフランクフォートに向けて出発しており、仕事もやりかけたままだった。ビーチャムは、シャープが仕事を仕上げるためにボーリンググリーンに戻ってくるはずだと考えた。ビーチャムはシャープの戻りを待つことに決め、市内で法律事務所を開いた。1822年から1823年、ビーチャムは法律実務を行いながらシャープの帰りを待っていたが、シャープは来なかった〔Cooke, p. 129〕。 ビーチャムはアンナが課した義務を果たしていなかったが、二人は1824年6月半ばに結婚した〔Whited, p. 404〕。ビーチャムは即座にシャープを殺すための次の案を作った。ビーチャムはシャープに手紙を送り始めた。それぞれが異なる郵便局から発送され、偽名が記されていた。内容は土地の権利問題解決の援助を求め、シャープがいつグリーン川の地域に来るつもりかを尋ねていた。シャープは遂に1825年6月にビーチャムの最後の手紙に答えたが、到着日は明かしていなかった〔Cooke, pp. 129–130〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ビーチャム=シャープの悲劇」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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