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ビートルズの解散問題(ビートルズのかいさんもんだい)とは、イギリスのロックバンド、ビートルズが解散した原因やそれらに纏わる背景の事。 1970年4月10日、ポール・マッカートニーはイギリスの大衆紙『デイリー・ミラー』でビートルズからの脱退を発表し、同年12月30日にはロンドン高等裁判所にアップル社と他の3人のメンバーを被告として、ビートルズの解散とアップル社における共同経営関係の解消を求める訴えを起こした。翌1971年3月12日、裁判所はポールの訴えを認め、他の3人は上告を断念したのでビートルズの解散が法的に決定された。 ビートルズについて語る本の一部では、「オノ・ヨーコがジョン・レノンをビートルズから引き離した張本人」とされる例が散見された。しかし、ジョージはヨーコが全責任を負うわけではないとしており〔『アンソロジー』p.310〕、ポールも2012年10月に「ヨーコがビートルズをバラバラにしたんじゃない。ビートルズは自らバラバラになった」と語っている。 この項では、個々の解散の原因とされる問題ごとに区別して述べる。 == 公演活動の終了 == 1966年8月29日、ビートルズは同年夏からスタートした短期ツアーの最終公演として、サンフランシスコのキャンドルスティック・パークでコンサートを行なった。彼らはこのツアー中、従来は経験しなかった様々なトラブルに見舞われ、1964年から1965年まで大きな問題もなくツアーを行ってきた彼らにとって非常に辛い経験となった(後から見ればそれは彼らが当時感じたほど重大な出来事ではなかったが)。これらのトラブルは、彼らがコンサート活動終了を決定する最後のひと押しとなった。彼らにとって、ライブ・コンサートで演奏することはもはや満足のゆく自己表現の場ではなく、むしろストレスばかり溜まる雑用となっていた。 公演活動を止めるという考えは日本公演のころから始まった。日本武道館での公演は同館を「神聖な場所」と考える人々の大きな反対にも関わらず実施された。コンサートは1966年6月30日から7月2日まで計5回行われたが、警備上の制限により非常に静かな観客の前で行われた(日本公演においては、観客は着席を義務付けられるなど、非常に厳重な警備態勢が敷かれていた)。 実際にジョージ・ハリスンは「ビートルズ・アンソロジー」において「全体的に静かだった」と話している。これは金切り声を上げる少女たちといった普段のコンサートの様子とは異なるものだった。普段は自分たちの演奏の様子すら聞くことが出来なかったメンバーにとって、日本の観客の静かさはその演奏を確認させることとなり、彼らは自分たちの演奏能力が低下したように感じた〔『ビートルズと60年代』pp.247-248〕(皮肉にも彼らは後に1965年および66年のツアーにおいて、叫び声を上げ音楽を聴くことの出来ないファンの前で、より洗練された新しい曲を演奏するのはフラストレーションが溜まるものであったと不平を話している)。 日本公演の数日後に彼らはフィリピンを訪れる。問題は警察がホテルから立ち去る許可を与えないことから始まった。続いてコンサート後に、大統領夫人のイメルダ・マルコスが自らの家族や友人のためにパーティを開催し、ビートルズを招待したが、メンバーもマネージャーのブライアン・エプスタインもその事実を知らされていなかった。エプスタインはバンドがパーティに向かうときの護衛として派遣されたガードマンを追い払い、このことは無礼な対応と捉えられた〔『ビートルズ オーラル・ヒストリー』pp.236-237〕。 翌朝の新聞にはビートルズが「ファーストレディに肘鉄を食らわした」と報じられた。腹を立てた民衆は暴動を引き起こし、バンドはフィリピンを脱出しようとした。リンゴ・スターは飛行機に乗ろうとした際に肋骨に怪我を負い、多くのツアーメンバーも負傷した。彼らの機材は失われ、コンサートの収益はすべて課税され、何名かのツアーメンバーは空港での乱闘後にそのまま取り残された〔『朝日新聞』1966年3月16日付朝刊、第12版、14面〕。 1966年のアメリカ・ツアー終了後、ジョージ・ハリスンは幾つかの理由からエプスタインに対しバンドからの脱退を申し入れた〔『ビートルズと60年代』p.272〕。その考えの陰には音楽を創造したいという願望と、1960年代中頃から、発達した録音技術によって作られた曲をライブ演奏する際の、技術的な制限との葛藤から生じた不満があった〔『ビートルズ オーラル・ヒストリー』pp.239-240〕が、彼の申し入れは却下された。ビートルズはその歴史上重大な路線変更を決定した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ビートルズの解散問題」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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