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ピエトロ・アンドレア・マッティオリ(Pietro Andrea Gregorio Mattioli 、ラテン名:Matthiolus、1501年3月12日 – 1577年)はイタリアの医師、博物学者である。 ==略歴== シエナで医師の息子に生まれ、ヴェネツィアで育った。1523年にパトヴァ大学で医学の学位を取り、その後枢機卿などの医師を務め、シエナ、ローマ、トレント、ゴリツィアで働いた。ローマで最初の植物学の著作を行った。1554年か1555年に後に神聖ローマ帝国皇帝となるフェルディナント2世、マクシミリアン2世父子の侍医となり、オーストリアのアンブラス城やウィーンで仕えた。1564年にマクシミリアン2世が没した後、1568年にイタリアに戻り、1577年にトレントで流行病のために没した。 医学に関する著作に加えて、プトレマイオスの『ゲオグラフィア』などのラテン語やギリシャ語の著作からイタリア語への翻訳をおこなった。特に、ディオスコリデスの本草書、『薬物誌』の翻訳と解説が有名となった。1544年にジャン・リュエルのラテン語訳を元に、図版なしで最初の翻訳・注釈本が出版され、1548年に増補版の解毒剤に関する著作が加えられ、1550年と1551年にも増補版が出版された。1554年には『ディオスコリデスの著書への注解』(Commentarrii in sex libros Pedacii Dioscoridis)が出版され、ジャン・リュエルの注釈から一部解説が異なり、583の木版画が添付された。 当時の有名な本草学者、オットー・ブルンフェルスやヒエロニムス・ボック、レオンハルト・フックスらの著作に記載のない多くの植物を記述した。1544年に新大陸から伝わったトマトについて記述し、セイヨウトチノキの薬効について記述したことなどで知られる。 シャルル・プリュミエによって、アブラナ科のアラセイトウ属の学名、''Matthiola''に献名された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ピエトロ・アンドレア・マッティオリ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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