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ピエル・パオロ・パゾリーニ : ミニ英和和英辞書
ピエル・パオロ・パゾリーニ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ピエル・パオロ・パゾリーニ : ウィキペディア日本語版
ピエル・パオロ・パゾリーニ[ちょうおん]

ピエル・パオロ・パゾリーニPier Paolo Pasolini, 1922年3月5日 - 1975年11月2日) は、イタリア映画監督脚本家小説家詩人劇作家評論家思想家
== 生涯 ==
1922年3月5日ボローニャで生まれた。軍人の父カルロ・アルベルトはベニート・ムッソリーニの命を救ったことで有名なファシストであり、幼少期のパゾリーニは父の軍務により、北イタリアの各地を転々とした。元教師で芸術家気質だった母スザンナの影響を受け、パゾリーニは7歳で詩作を始めた。その後、1939年ボローニャ大学に入学し、文学を専攻する傍ら映画にも関心を持つようになった。第二次世界大戦中は母と二人でフリウリ地方で教師として生活し、1942年フリウリ語の方言で執筆した詩集『カザルサ詩集』を発表。一方で終戦直前の1945年2月12日、反独パルチザンだった弟グイドが内部抗争で死亡し、この出来事はパゾリーニに多大な影響を与えたと言われている。終戦後の1947年に中学校の教師に着任し、同時にイタリア共産党に入党。しかし、1949年に未成年の青年への淫行の容疑をかけられ、共産党から除名され、教職も追われた。翌1950年、母とともにローマに移住し、窮乏生活を送りながら執筆活動を続けた。1954年マリオ・ソルダーティ監督の『河の女』の脚本を共同執筆したことをきっかけに脚本家としての活動を始め、映画界に携わるようになった。翌1955年には処女小説『生命ある若者』を発表。発禁処分を受けたが、本作をきっかけに作家アルベルト・モラヴィアの知己を得た。1957年に発表した詩集『グラムシの遺骸』はヴィアレッジョ賞を受賞。同年、フェデリコ・フェリーニ監督の『カビリアの夜』の脚本を共同執筆。以後も映画監督としてデビューするまでに10本以上の作品に脚本家として携わった。
1961年長編映画処女作『アッカトーネ』を発表。助監督は翌1962年にパゾリーニの原案を元にした『殺し』で映画監督としてデビューしたベルナルド・ベルトルッチが務めた。また、1961年にはモラヴィアと彼の妻エルサ・モランテとともにインドケニアを旅行した。パゾリーニは翌1962年から1963年にかけてもアフリカの各国を単身で訪れ、この体験が後の作品に見られる僻地での撮影に活かされた。1964年、『マタイによる福音書』を忠実に映像化した『奇跡の丘』を発表。第25回ヴェネツィア国際映画祭審査員特別賞と国際カトリック映画事務局賞を受賞した。1966年にはイタリアの喜劇王とも言われた俳優のトトを起用した『大きな鳥と小さな鳥』を発表。第19回カンヌ国際映画祭で上映され、ロベルト・ロッセリーニの好評を得た。1967年にはソポクレスの戯曲『オイディプス王』を自伝的要素を内包して映画化した『アポロンの地獄』を発表。第28回ヴェネツィア国際映画祭では不評に終わったが、日本では1970年キネマ旬報ベストテンの第1位に選出された。その後も『テオレマ』(1968年)や『豚小屋』(1969年)といった資本主義社会への批判を暗示した寓意的作品を発表するが、いずれの作品も大衆の支持を得られなかった。その他、1969年にはエウリピデスの悲劇『メディア』を映画化した『王女メディア』を歌手マリア・カラスを主演に起用して製作した。1960年代後半は映画や戯曲の相次ぐ不評や若い世代との思想的対立など、パゾリーニは一種の孤立状態に陥ったと言われている〔大島渚、四方田犬彦、浅田彰、大野裕之他著 『パゾリーニ・ルネサンス』 (2001年) P.201 「パゾリーニをめぐる年表」 より。〕。
1970年代に入り、それまでの作品とは作風の異なる「生の三部作」と呼ばれる作品群を発表。ボッカッチョ同名小説を映画化した1作目の『デカメロン』(1971年)は第21回ベルリン国際映画祭審査員特別賞を、チョーサー同名小説を映画化した2作目の『カンタベリー物語』(1972年)は第22回ベルリン国際映画祭金熊賞を、『千夜一夜物語』を映画化した3作目の『アラビアンナイト』(1974年)は第27回カンヌ国際映画祭審査員グランプリを受賞し、いずれも好評を博した。その一方で商業主義的との批判も浴び、1975年に出版した「生の三部作」の脚本をまとめた単行本の序文で「私は生の三部作を撤回した」と発表している。
1975年、マルキ・ド・サドの『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』を原作にした『ソドムの市』の製作に着手した。原作はサドが生きた近世フランスをテーマとした嗜虐的な作品となっているが、パゾリーニは原作を現代イタリア、それも第二次世界大戦中末期の内戦ファシスト党が設立したイタリア北部の亡命政権であるイタリア社会共和国(RSI、サロ共和国)を舞台とした作品へと翻案した。これは共産主義者であったパゾリーニにとって、冷戦期のイタリアで勢力を回復させていたネオファシスト運動への批判、そして経済的に豊かな北イタリアによる「南イタリアへの搾取」の批判といった、右派や資本主義に対する政治的風刺(或いは攻撃)を意図したものであった。軍装などの考証が正確な一方、史実に基づかない作品中の残虐描写は攻撃の対象とされたネオファシスト勢力からの強い反発を受けた。
1975年11月2日、同作の撮影を終えた直後のパゾリーニはローマ近郊のオスティア海岸で激しく暴行を受けた上に車で轢殺された。享年53歳没。『ソドムの市』に出演した17歳の少年ピーノ・ペロージが容疑者として出頭し、「同性愛者であったパゾリーニに性的な悪戯をされ、正当防衛として殺害して死体を遺棄した」と証言し、警察の捜査は打ち切られた。しかし当初から少年による単独犯としては無理のある内容であり、ネオファシストによる犯行とする陰謀論が主張された。現在も真犯人は判明せず、その死の真相を巡ってはアウレリオ・グリマルディ監督の『パゾリーニ・スキャンダル』(1996年)など多くの映画や伝記本が製作されている。日本では1999年に「パゾリーニ映画祭」と題した上映会が開催され、映画監督の大島渚が実行委員長を務めた。
2005年、ペロージは国内のドキュメンタリー番組で「パゾリーニはファシスト達に殺害された。自分は家族に危害を加えると脅され、偽の自首を強要された」と新たに証言した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ピエル・パオロ・パゾリーニ」の詳細全文を読む




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