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ピエル・ブリヤント(仏語''Pierre Brillant''、「輝く石」の意、1931年12月16日 設立 - 1938年 改称)は、かつて存在した日本の軽演劇の劇団である。「ピエル・ブリアント」は誤りである。 == 略歴・概要 == 1931年(昭和6年)12月16日、東京市浅草区公園六区(現在の東京都台東区浅草)に、「浅草オペラ館」が新規開場、その杮落としとして上演されたのが、劇団「ピエル・ブリヤント」の旗揚げ公演であった〔帝京平成大学公式サイト内の「笑い学講座」内の記事「第32回 エノケンロッパの登場1 」の記述を参照。〕。 「ピエル・ブリヤント」は、榎本健一と二村定一のダブル座長の劇団で、2人は、旗揚げ前月の同年11月に、劇団「プペ・ダンサント」を武智豊子とともに脱退していた。同劇団には、榎本、二村、武智のほか、柳田貞一、中村是好、石田守衛、花島喜世子、藤野靖子、永井智子、松山千浪らが参加している〔。座員150人、オーケストラ部員25人、文芸部8人という、当時の日本最大規模の喜劇劇団であった〔国立音楽大学音楽学部音楽学学科作成の資料「エノケンさんに 会いにゆこう! 」(2004年11月)の記述を参照。〕。文芸部には菊谷栄らがいた。 榎本は「新作絶対主義」で、再演をよしとしなかったが、『カルメン』、『民謡六大学』などは例外であった〔。 1932年(昭和7年)7月、「ピエル・ブリヤント」は松竹専属になり、本拠地劇場は、浅草松竹座に変更になる。『月刊エノケン』第1号が、ピエル・ブリヤント文芸部の編集により、浅草松竹月刊エノケン社から発刊された。1935年(昭和10年)ごろまで発行されていた。同年、三益愛子が入団している。 1934年(昭和9年)5月3日、榎本と二村は、ピー・シー・エル映画製作所(P.C.L.)が製作した、山本嘉次郎監督の『エノケンの青春酔虎伝』に出演、同作が公開される。榎本にとっては、端役であった京都の中根龍太郎喜劇プロダクション以来、6年ぶりの映画、しかも初の主演である。1935年(昭和10年)公開の映画『エノケンの近藤勇』は、オリジナルシナリオを書いたとして「ピエル・ブリヤント、P.C.L.文芸部」とクレジットされており、演奏は「ピエル・ブリヤント管弦楽団」である。1937年(昭和12年)8月1日公開の『エノケンのちゃっきり金太 後篇』まで、10本のP.C.L.の映画に出演した〔日本映画データベースの「榎本健一 」の項の記述を参照。〕。 1938年(昭和13年)、榎本は松竹を退社して東宝と契約を結んだ〔。これまでは、松竹演劇部に籍を置きながら、P.C.L.や東宝映画の映画に出演していたことになる。「ピエル・ブリヤント」は「東宝榎本健一一座」と改名した〔。もはや二村は座長ではなかった。「ピエル・ブリヤント管弦楽団」は、「東宝管弦楽団」と合体した〔。東宝移籍後の第1作は映画『エノケンの法界坊』であった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ピエル・ブリヤント」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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