|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ピエール・エチュバステール(Pierre Etchebaster, 1893年12月8日 - 1980年3月24日)はフランスのテニス選手。1928年、ジュ・ド・ポーム(リアルテニス)の世界選手権に初優勝し、以降、1954年に競技を引退するまで26年にわたってそのタイトルを保持した。リアルテニス界における「20世紀で最も有名なプレーヤー」とされる。1978年、国際テニス殿堂入りした。 == 生涯 == フランス、バスク地方のサン=ジャン=ド=リュズに生まれる。バスクの伝統スポーツであるペロータ・バスカの経験者で、もともとマノ〔トリンケットと呼ばれる屋内コートにおいて素手で行うペロータの一種。〕のプレーヤーであったが、第一次世界大戦の兵役から帰還してのち、マノに加えてパラ〔木製のラケット状の道具を用いるペロータ。〕、システラ〔籠状の道具を用いるペロータ。バイヨンヌのバスク博物館にはエチュバステールが使っていたジュ・ド・ポームのラケットやボールとともにペロータのシステラもある。''cf.'' 〕の3種目でそれぞれフランス国内チャンピオンとなった。 1922年、フランスのテニス国内王者でパリのジュ・ド・ポームクラブの代表だったジャック・ウォルト〔パリ・オートクチュールの父と呼ばれるシャルル・ウォルトの一族に生まれた人物で、妻はカルティエ創業者一族の出身。〕は、ペロータに秀でたバスク人ならばジュ・ド・ポームに向くと考え、エチュバステールにトライアウトを受けさせた。このわずか10分ほどのトライアウトによってエチュバステールのテニス転向が決まり、「朝に野球のバットを手にした人物が午後にはヤンキースでプレーするようなもの」とされた。 ウォルトの読みどおり、エチュバステールはジュ・ド・ポームの世界で頭角を現す。1927年に世界チャンピオンに初挑戦、翌1928年にはロンドンのプリンシーズコートで行われた世界選手権で初優勝し、そのタイトルを獲得した。 さらにエチュバステールは、1930年(対ウォルター・キンセラ戦)、1937年(対オグデン・フィップス戦)、1948年(対フィップス戦および対ジェイムズ・ディール戦)、1949年(対フィップス戦)、1950年(対アラステア・マーティン戦)、1952年(対マーティン戦)の計7回にわたってタイトルを防衛した。この世界選手権8連覇の記録は、2008年にオーストラリアのロブ・フェイ(Robert Fahey)が9連覇するまで破られなかった。 1930年、ニューヨークのラケット・アンド・テニス・クラブに拠点を移し、1955年に引退するまで同クラブでプロフェッショナルを務めた。引退の年にレジオンドヌール勲章を受章している。著作に''Pierre's Book: The Game of Court Tennis''(1971年)がある〔 〕。トレードマークは青いベレー帽だった。1978年、国際テニス殿堂入り、1980年、故郷のサン=ジャン=ド=リュズで没した。 アメリカの詩人マリアン・ムーア(Marianne Moore)は「様式(''Style'')」(1956年)という詩の中で、フィギュアスケーターのディック・バトンとともにエチュバステールを題材にとりあげている〔森田孟「機会詩人の画家と幻想――マリアン・ムーアの世界 」『文藝言語研究. 文藝篇』筑波大学文藝・言語学系、1994年3月25日〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ピエール・エチュバステール」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|