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ピエール・エリオット・トルドー(Pierre Elliott Trudeau、本名:Joseph Philippe Pierre Yves Elliott Trudeau、1919年10月18日 - 2000年9月28日)は、カナダの政治家。第20・22代首相を務めた。カナダ史上初めての20世紀生まれの首相である。国家としてのアイデンティティーを明確にし、多文化主義や途上国援助などでカナダの再構築に大きな貢献をした。所属政党は自由党(Liberal)。 == 来歴 == ケベック州モントリオール出身のフランス系。モントリオール大学で学び、ハーバード大学大学院に進み、マルクス主義に強い興味を持っていたトルドーは共産主義とキリスト教に関する論文を書いた〔English, John (2006). Citizen of the World: The Life of Pierre Elliott Trudeau Volume One: 1919–1968. Toronto: Knopf Canada. ISBN 978-0-676-97521-5. pp. 145–146.〕。その後、パリ政治学院を経て、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスではハロルド・ラスキに師事する(中退)〔English, John (2006). Citizen of the World: The Life of Pierre Elliott Trudeau Volume One: 1919–1968, p. 166. Toronto: Knopf Canada. ISBN 978-0-676-97521-5. pp.166.〕。 1970年のケベック解放戦線がケベック独立を要求しイギリス貿易省クロス長官を誘拐し、ケベック州労働大臣ピエール・ラポルテを殺害した「オクトーバー・クライシス(十月危機)」の際、戒厳令を引き強硬手段で解決にあたったことは、今でも賛否両論となっているが、彼が内政の運営がきわめて難しい多文化国家であるカナダ社会において、ケベック州生まれでフランス系カナダ人であるが、ケベック独立に反対し、カナダをひとつの国としてまとめようと強力なリーダーシップをとっていたことの一例である。1971年には「多文化主義宣言」を行い、公用語を英仏二カ国語とするなど、現在の多文化国家カナダの原型を作り上げた。また、経済政策ではペトロ・カナダを設立して石油産業の国有化を図った。1982年には新憲法が制定され、イギリスとの関係を明確にした。その後さらに、対米依存主義脱却を目指した。 なお、ソビエト連邦の駐カナダ大使として着任してきたアレクサンドル・ヤコブレフとは深い交友関係を築き、トルドーは彼にちなんで自分の次男にアレクサンドル (Alexandre) と名付け、さらにロシア語風のサーシャという愛称で呼ぶほどだった。 2004年にモントリオールの空港が、彼にちなみモントリオール・トルドー国際空港と改名した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ピエール・トルドー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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