|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana) ・ コーション : [こーしょん] (n) caution, (n) caution
ピエール・コーション(、1371年 - 1442年12月)はフランスの聖職者。 ブルゴーニュ派・親イングランド派の聖職者としてに出世し、1431年2月から5月にかけてのジャンヌ・ダルクの異端審問において裁判長を務めた。 == 経歴 == === ジャンヌの裁判まで === 1371年頃、ランスに生まれた。出自は定かではない。農民の子とも、ランスに移住した貴族の家柄の子ともいわれる。後のイングランド王ヘンリー6世の秘書ジャン・ド・リネルは甥にあたるという血縁関係のみが判明している。 教会法学士としての法律知識と弁論術が評価されて、パリ大学学長、ランスとボーヴェの参事会会員、ランス・ノートルダム大聖堂司教代理などを歴任した。特にパリ大学を代表する立場を主に使用した。 パリではブルゴーニュ公の取り巻きの一人となり、1413年のの際にはその首謀者の一人として下層民の扇動にあたった。そのため1413年9月27日にベルナール7世がパリに入城してくると、パリから追放された。 1414年から1418年にかけて開催されたコンスタンツ公会議にブルゴーニュ公の命によりブルゴーニュ派として出席し、オルレアン公ルイ・ド・ヴァロワ暗殺を正当化するジャン・プティの説を支持した。 その後、破毀院の調査官となり、パリ大学代表者として様々なブルゴーニュ派のための任務をこなした。甥のジャン・ド・リネルとともにシャルル皇太子(シャルル7世)の王位継承権を否定するトロワ条約の起草にあたったのもその一つだった。同条約遵守の誓約人も務めた。 1420年からに就任した。この司教職には慣例としてパリ大学の諸特権保護者というポストが付随していたので、この後もパリ大学代表者として行動した。 イングランド摂政ベッドフォード公ジョンの意向に従って、1421年にはをジュネーヴに遠ざけるなどの政治工作にあたった。 1429年5月にジャンヌ・ダルクがオルレアンを解放し、7月にシャルル7世をランスに導いた際、コーションは聖体祝日の行列に参加するために直前までランスに滞在していたが、フランス軍の接近を聞いてボーヴェへ逃げ帰った。しかしボーヴェ住民がイングランド人とブルゴーニュ派の追放を開始したため、さらにルーアンへと逃れる羽目となった。 ベッドフォード公はこれを機にコーションをにすることを希望したが、ルーアンの聖職者たちの反対が根強かったので、結局コーションはになるにとどまった。 1430年5月にコンピエーニュでジャンヌがブルゴーニュ派の捕虜になった。コンピエーニュはボーヴェ司教の管轄であり、コーションはその資格に基づいてイングランドが彼女を買い取れるよう尽力し、さらに自分を裁判長とする異端裁判に彼女をかけることに成功した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ピエール・コーション」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|