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ピエール・テイヤール・ド・シャルダン(Pierre Teilhard de Chardin,1881年5月1日 - 1955年4月10日)は、フランス人のカトリック司祭(イエズス会士)で、古生物学者・地質学者、カトリック思想家である。 == 人物・来歴 == 主著『現象としての人間』で、キリスト教的進化論を提唱し、20世紀の思想界に大きな影響を与える。彼は創世記の伝統的な創造論の立場を破棄した。当時、ローマはこれがアウグスティヌスの原罪の教理の否定になると考えた。北京原人の発見と研究でも知られる。 テイヤールは、1881年、フランスのオーヴェルニュ地方に11人兄弟の4人目として生まれた。彼の家はルイ18世時代に叙爵された貴族の家柄である。この地方は火山性地質で、父エマニュエル・テイヤールがアマチュアの自然学者だったこともあり、テイヤールの地質学や古生物学への関心は少年時代に育まれた。1899年、イエズス会の修練院に入り、修練士として学ぶが、修道会がフランスより追放されたことで、ジャージー島へと移動し哲学を学ぶ。その後、物理学・化学の教師として、エジプト・カイロのイエズス会高等学校に派遣され、エジプトで教師として勤務しつつ、発掘調査などを個人で行う。 1911年、イギリスにおいて司祭に叙階される。パリ自然歴史博物館(:en:Muséum national d'histoire naturelle)で、古生物学者マルブリン・ブルの弟子となる。1922年、パリ博物館で博士号を取得し、パリのカトリック学院の教授となる。同じイエズス会士リセント神父と出会ったテイヤールは中国に招かれ、地質学と考古学を学び、モンゴル、オルドス等への科学的研究旅行を行う。 1924年、パリに一時帰国したテイヤールは、上長より彼の思想に問題があることを指摘され、中国へと再び戻る。1929年10月、テイヤールとカナダ人研究者ブラックは、パリ博物館に電報を打ち、北京原人の発見を報告する。周口店で発見された旧石器時代の石器を鑑定して、北京原人がこれらの石器を使用していたと判断した。この後、テイヤールは、ゴビ砂漠、中央アジア、インド、ビルマ、ジャワへと研究旅行に出かける。 1939年、日本軍の進出により、北京在住の外国人は軟禁状態となるが、テイヤールは、進化についての思索に没頭し、『現象としての人間 (Le Phénomène Humain)』を執筆する。 1945年の第二次世界大戦終了後、テイヤールは考古学者としての名声のなかでヨーロッパに戻るが、カトリック教会及びイエズス会はテイヤールの思想を危険なものと見做し、彼をニューヨークへと移転させる。ニューヨークで過ごす日々のあいま、彼はアフリカへと旅し、当時、発見されて間もなかった、アウストラロピテクスの研究にも携わった。1955年、ニューヨークにてテイヤールは逝去する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ピエール・テイヤール・ド・シャルダン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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