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ピエール・ド・マリボー : ミニ英和和英辞書
ピエール・ド・マリボー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ピエール・ド・マリボー ( リダイレクト:ピエール・ド・マリヴォー ) : ウィキペディア日本語版
ピエール・ド・マリヴォー[ちょうおん]

ピエール・カルレ・ド・シャンブラン・ド・マリヴォーフランス語:Pierre Carlet de Chamblain de Marivaux1688年2月4日 - 1763年2月12日)は、フランス王国(現:フランスパリ出身の劇作家小説家。生涯に約40の戯曲を著した。
アカデミー・フランセーズの座席24番の会員で、これまで伝統的であった同国出身の劇作家ジャン=バティスト・ポクラン(通称:モリエール)流の喜劇を改革し、女性に於ける恋愛心理の分析を特色とする喜劇を創始した。
マリヴォーの代表作は1730年イタリア座で初演された『愛と偶然との戯れ:fr:Le Jeu de l'amour et du hasard)』である。『愛と偶然との戯れ』は日本でも2011年に、宝塚歌劇団星組によって『めぐり会いは再び』として上演された〔星組公演『めぐり会いは再び2nd~Star Bride~』 - 宝塚歌劇団ホームページ、2013年10月2日閲覧。〕。
また、マリヴォーの作品は極めて特徴的で、戯曲の主人公は決まって女性であり、作品にロマンティック・コメディを組み込み、繊細で気取りを表現した文体は「マリヴォダージュ(''Marivaudage'')」と呼ばれる。
マリヴォーは女性の恋愛心理を細かい描写で表現した。しかし、マリヴォーの存命中には観客から作品が充分に理解されず、収入的に失敗することも多かったが、20世紀に入ってから高く評価されるようになった。
== 生涯 ==
1688年2月4日、フランス王国(現:フランス)のパリに、ノルマンディー出身の法服貴族資本家だったニコラ・カルレ(''Nicolas Carlet'')の元に生まれる。父の仕事の都合によりリオンからリモージュ移住し、幼少期はパリを離れてオーベルニュ地域圏で過ごした。
最初はで学び、1712年にパリに戻り、法律を学んだ。なお、パリでは同国出身の著述家ベルナール・フォントネルと親しくなり、フォントネルと知り合った以降は同国出身の作家ランベール女公爵とも)や哲学者ジャン・ル・ロン・ダランベールである(タンサン女公爵とも)のサロンに出入りしていた。
1706年にマリヴォーの処女作である『:fr:Le Pere prudent et equitable』を著し、6年後の1712年に刊行した。
1710年代は戯曲よりも小説を多く著した(作品については当記事#作品を参照されたい)。なお、この頃より同国出身の作家と知り合うようになった。
1720年にはマリヴォー唯一の悲劇『』をコメディー・フランセーズにて上演したが、失敗した。しかし同年、イタリアの俳優が率いるイタリア座で『』を上演して人気を博し、劇作家としての地位を確立した。
その後、東インド会社西インド会社投資してしまい〔マリボーとは - コトバンク、2013年10月12日閲覧。〕、スコットランド財政家ジョン・ロー財政政策であるミシシッピ計画により破産し、社会的な矛盾を感じるようになる。1711年からイギリスエッセイスト詩人ジョゼフ・アディソンとが刊行しているエッセイ新聞『』を模倣し、マリヴォーは独自に1721年から1724年にかけて〔『スペクタトゥール・フランセ』の刊行に関しては1722年から1723年に刊行したともされる。〕新聞『スペクタトゥール・フランセ(''Le Spectateur françois'')』を刊行した。
1722年5月5日には戯曲『』を上演し、翌年1723年4月6日には『』を上演した。
1742年から1763年にかけてアカデミー・フランセーズの座席24番の会員を務める。
1763年2月12日にパリで亡くなる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ピエール・ド・マリヴォー」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Pierre de Marivaux 」があります。




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