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ピエール・ブノア : ミニ英和和英辞書
ピエール・ブノア[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ピエール・ブノア : ウィキペディア日本語版
ピエール・ブノア[ちょうおん]
ピエール・ブノア(Pierre Benoit、1886年7月16日 - 1962年3月3日)はフランスの小説家。冒険小説を得意とし、20世紀の前半に人気を誇った。代表作は『アトランティード』(L'Atlantide)。アカデミー・フランセーズ会員。表記はブノワとも。
==経歴==
===若年期===
職業軍人の息子として、フランス南部のタルヌアルビで生まれた(父がここに駐屯していたのである)。ブノアがアルビで暮らしたのは1歳まででしかないが、彼はこの都市(特に大聖堂)に特別の思い入れを持ち、後に創作のインスピレーションの源泉となった。
1887年、父に連れられて北アフリカへ。はじめチュニジア、のちアルジェリアに暮らす。1907年に父が退役し、フランスに帰国。最初モンペリエで文学・法学を学ぶ〔Jouve et Saint-Prot, art. cit., p.19.〕。その後オー=ド=セーヌ県ソー(Sceaux)へ。この頃シャルル・モーラスおよびモーリス・バレスと知り合い、思想的影響を受ける〔。
1910年、最初の詩集を発表。フランス文学者協会()から賞を受ける〔。一方、短編集"" (1914) は不評であった〔Jacques Augarde, « Pierre Benoit, poète méconnu », in Pierre Benoit témoin de son temps, p.110.〕。
第一次世界大戦が勃発すると徴兵されたが、シャルルロワの戦い(1914年8月)の後、重病に罹って数ヶ月を病院で過ごした。前線での体験は若きブノアにとって大きなトラウマであり、彼を熱烈な平和主義者に変えるに充分なものであった。
停戦後、彼は戦前の友人たち(フランシス・カルコローラン・ドルジュレスピエール・マッコルラン)と再会し、« Le Bassin de Radoub »(乾ドック)という名の協会を設立した(他にはアンリ・ベローも加わった)。この組織は、各年の「最低の本」を「表彰」することを主たる活動とした。副賞として、受賞作の著者には「二度と帰ってくるべからず」との意を込め、その出身地への切符が贈られた。1919年、彼らはヴェルサイユ条約に対して賞を与えた〔cf. Jacques Augarde, art. cit., pp.106-107.〕。
===最初の長編と最初の成功===
ブノアは戦前には新ロマン主義の一詩人に過ぎなかったが、戦後では世界的な流行作家となった。1918年の『ケエニクスマルク』""は顕著な成功を修め、アンドレ・シュアレス()やレオン・ドーデ()の支持を得てゴンクール賞の候補作にもなったが受賞は逃した〔Jouve et Saint-Prot, art. cit., p.20. Le prix sera finalement attribué à Georges Duhamel pour Civilisation.〕。翌1919年、仏領北アフリカを舞台にした秘境冒険小説『アトランティード』"L'Atlantide"を刊行。瞬く間にベストセラーとなった。1936年、カトリシズム作家のルイ・シェーニュ(Louis Chaigne)は、本作に対する大衆の熱狂を分析して以下のように述べている。

モーリス・バレスの積極的な支持を得て、この本は1919年度アカデミー・フランセーズ賞を受賞した。
1920年から死(62年)まで、ピエール・ブノアは毎年ほぼ一冊の小説を書き、累計40冊をアルバン・ミシェル社()から刊行した。これは冒険小説の王と呼ぶに相応しい業績である〔Jouve et Saint-Prot, art. cit., p.20.〕が、彼は恋愛小説の分野を軽視したわけではなく、""(1923) は「他の作品と比べ、より文学的でより深みがある」ためにブノアの代表作の一つに数えられている〔 Jouve et Saint-Prot, art. cit., p.21, d'où est extrait la citation précédente.〕。
===世界を回る===
1923年、Le Journal紙の提案を受けて、通信員としてトルコに赴く(これは彼にとって図書館司書の仕事をやめてフリーになる絶好の機会であった)。トルコ革命中のアナトリアを横断し、彼はアンカラケマル・アタテュルクへのインタヴューを行なった。続いてパレスチナシリアにも足を伸ばした。
1923年から38年、および47年から53年の期間、ブノアは小説家と記者の仕事を並行して行なった。記者としては極東(日本を含む)、イラン(1926-27年)、オーストラリア(1938年)、タヒチアンティル諸島(1928年)、チュニジア(1931年)、レバノン(1932年)、インド洋(1933年)、オーストリア(1938年)、アルゼンチンブラジル(1950年)などを訪れた〔Cette liste est la reprise partielle de celle établie par Charles Saint-Prot, qui elle-même n'est pas exhaustive (art. cit., p.29.)〕。政治家への取材も行なっており、1935年にはハイレ・セラシエ1世ムッソリーニと、1938年にはヘルマン・ゲーリングと、第二次大戦後にはポルトガルの独裁者アントニオ・サラザールと会見している〔Edmond Jouve et Charles Saint-Prot, art. cit., p.21.〕〔Cf. Alain chastagnol, art. cit., pp.154-155.〕。
これら多くの旅行は創作に大変役立った。彼の作品のほぼ全てが、取材で訪れた国を舞台としている〔Charles Saint-Prot, art. cit., p.32.〕。彼のルポタージュにはフランス植民地帝国を擁護する傾向が強く、また頑固なイギリス嫌いもしばしば顔を見せる〔Charles Saint-Prot, art. cit., p.37.〕。
===アカデミー、映画、政治===
ブノアは1929年にフランス文学者協会の会長となった。1931年6月11日にはアカデミー・フランセーズの会員に選出され、32年11月24日にジョルジュ・ド・ポルト=リッシュ(Georges de Porto-Riche)から席次6を引き継いだ。
1920年代以降、ブノアの小説はいくつも映画化されている。『アトランティード』は彼の存命中だけでも2度映画化され、死後にも2度映画化されている。(→#映画化作品
この時期、ブノアは政治にも積極的に関わった。モーラシズム君主主義を信奉し〔Il ne soutient pas pourtant la dynastie des Orléans, à la différence de ses amis de L'Action française : ses suffrages se portent sur les Bourbons-Parme (cf.Louis-Marie Clénet, art. cit., p.180.)〕、人民戦線とは対立する立場を取り、シャルル・モーラスをアカデミー・フランセーズの会員に推した(1938年6月9日に受理)〔cf.Louis-Marie Clénet, art. cit., pp.179-180.〕。
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