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ピエール・ポール・ブローカ : ミニ英和和英辞書
ピエール・ポール・ブローカ[ぶろー]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ブロー : [ぶろー]
 【名詞】 1. blow 2. (n) blow

ピエール・ポール・ブローカ : ウィキペディア日本語版
ピエール・ポール・ブローカ[ぶろー]

ピエール・ポール・ブローカ(、1824年6月28日1880年7月9日)は、フランス内科医外科医解剖学者人類学者ジロンド県サント=フォア=ラ=グランド出身。彼に因んで名づけられた前頭葉中の一領域ブローカ野の研究で最も知られる。ブローカ野は発話能力を司る。失語症を患った患者大脳皮質左前部の特定の領域に障害を有していたことが彼の研究により明らかになった。これは脳機能が局在していることの最初の解剖学的証明である。ブローカの研究は形質人類学の発展にも資するところがあり、を発展させた。
== 生涯 ==
ピエール・ポール・ブローカは、町医者で一時は外科医としてナポレオンに仕えていたバンジャマン・ブローカの息子として、フランスジロンド県サント=フォア=ラ=グランドで1824年6月28日に生まれた。ブローカの母はプロテスタント説教師の娘であった。ブローカは故郷の町で初等教育を受け、16歳で学士号を授与された。彼はパリの医学校に17歳で入学して20歳で卒業したが、当時医学を学ぶ人々は早くとも20歳ごろに医学を学び始めるのが通例であった。
卒業後彼は、最初にHôpital du Midiで泌尿器科医・皮膚科医のフィリップ・リコール(1800年-1889年)、1843年にBicêtreでフランソワ・ルーレ(1797年-1851年)というように豊富なインターンシップを経た。1844年には偉大な解剖学者・外科医ピエール・ニコラス・ジェルディ(1797年-1856年)の下でインターンを受けることができた。ジェルディの下で過ごして2年後、ブローカは彼の助手となった〔。
1848年には、ブローカはチャールズ・ダーウィンの理論に同調する自由思想家の協会を設立した。ブローカは非常に進化の思想全般に感化されており、「私は堕落したアダムの子であるよりもむしろ変異した類人猿でありたい〔〔Sagan, Carl. 1979. Broca's Brain. Random House: New York ISBN 1439505241.〕」と、ある時宣言した。
このため彼と教会との間で摩擦が生じ、教会から若者を退廃させる破壊的な唯物論者とみなされた。彼は生涯を通じて教会から敵意を持たれ、教会の権威との間に直接・間接に無数の対立が生じた〔。
1848年には、ブローカはパリ大学医学部の解剖係となったが、これは史上最年少でのこの職務への就任であった。彼は解剖学会の書記にも就任した。1849年には、彼は医学博士号を授与された。1859年に、エティエンヌ・ユジェーヌ・アザム、シャルル・ピエール・デノンヴィリエ、フランソワ・アンティム・ユジェーヌ・フォラン、そしてアルフレー・アルマン・ルイ・マリー・ヴェルポーらとともに、ヨーロッパで初めて催眠術を外科的麻酔として用いた実験を行った〔。
1853年にはブローカはPRAGとなり、病院の外科医に就任した。1867年には医学部の外面病理学教室の座長となり、その2年後には臨床外科教授となった。1868年には国民医学アカデミーのメンバーとなり、臨床外科教室の座長にもなった。この後彼は死ぬまでこの地位にあった。彼はHôpital St. Antoine、Hôpital de la Salpêtrière、the Hôtel des Clinques、Hôpital Neckerといった病院に勤めた〔。
医学的活動と並行して、ブローカは人類学に対する関心をも追求した。1859年、彼はパリ人類学会を創設した。彼は1862年以降この学会の書記の任に就いた。さらに彼は、1872年には『Revue d'anthropologie』誌を創刊して1876年には人類学学校を創設した〔奈良貴史、Bruno Maureille 「フランス人類学事情」 Anthropological Science (Japanese Series), Vol. 116 (2008), No. 1, pp,77-81. 〕。教会はフランスにおける人類学の発展に反対し、1876年には人類学学校における教授をやめさせようというキャンペーンを行った〔〔。
ポール・ブローカは晩年には元老院の終身議員に選ばれた。彼はアカデミー・フランセーズの会員にもなり、その他フランスおよび海外の多くの学術機関から名誉学位を授与された〔。
ブローカは1880年7月9日に脳出血により56歳で死んだ〔。彼の2人の子供はいずれも医科学の教授として有名になった〔。
== 研究 ==
ブローカの初期の科学的研究はおよび軟骨組織学を対象としていたが、腫瘍病理、動脈瘤の療法、乳児死亡率なども研究していた。彼が最も関心を持っていたことの1つは脳の比較解剖学であった。彼は神経解剖学者として、大脳辺縁系および嗅脳の理解に大きく貢献した。嗅覚は彼にとって動物性の現われであった。彼は当時のフランスで変異(仏:Transformisme)として知られた生物の進化に関して広範に著述した(この語は当時英語でも用いられたが今日ではどの言語でもほとんど用いられない〔)。
その後半生において、ブローカは公衆衛生及び公教育に関する著述を行った。彼は貧困者の公衆衛生に関する議論に関わり、Assistance Publiqueにおける重要人物となった。彼は婦人教育や婦人教育の教会からの分離をも唱道した。婦人教育の管理を続けようとした有名なローマ・カトリックのオルレアン司教フェリックス・ドゥパンループ(1802年-1878年)に対して彼は反対したのである〔。
ブローカが専門知識を有した主な領域の1つは脳の比較解剖学である。言語能力の局在に関する彼の研究によって、脳機能の左右分化という全く新しい研究が導かれた〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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