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ピエール・ムニクウ(Pierre Mounicou、1825年 - 1871年)はフランス人カトリック宣教師。パリ外国宣教会所属の司祭。 ルイ・テオドル・フューレ神父とともにフランス軍艦シビル号(クリミア戦争でロシア近海を遊弋)の従軍司祭として安政2年(1855年)3月20日、函館に上陸し、病気の水兵を実行寺に収容。6月12日には水兵4人を山背泊に埋葬した〔高木一雄、2004年 〕。 その後、フランス艦隊はアロー戦争に参加。安政4年(1857年)3月5日に那覇に上陸〔。万延元年(1860年)7月には横浜居留地八〇番で司祭館(横浜天主堂)建設を手伝っている〔『月刊「聖母の騎士誌」2001年2月号』 聖母の騎士社〕。 慶応3年(1867年)、函館に再上陸し、アンリ・アンプルステ神父とともに同町元町に司祭館を建てた。翌、慶応4年(1868年)4月、43歳の時に開港間も無い兵庫に着任。背は高く、髪は日本人の様に黒く、長い司祭服を引きずりながら歩いていたため、道行く人々から「あれが長崎のバテレンさんだ」と指差されたという。 着任した年の秋、居留地三十七番(現・大丸デパートの一部)に1,500km²の土地(927円)を購入して祭司堂(通称 三宮教会)を建てた。続いて大聖堂の建築に取り掛かったが、ステンドグラス、宗教儀式用具、楽器類の調達が日本の大工では手に負えなかったため、建築技師スメドレーと技師J.W.ハートの協力で3年の工期をかけて明治3年(1870年)の復活祭に「聖母マリアの七つの悲しみ」へ奉献式を挙行。神戸における最初の欧風建築であるこの大聖堂を拠点に、まず居留地外人伝道から初め、日本人に近づくこととしたが、明治4年(1871年)10月に病没。後事をアマトス・ビリヨンに託し、外国人墓地へ葬られた。 == 参考文献 == 〔 * 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ピエール・ムニクウ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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