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ピエール・モントゥー : ミニ英和和英辞書
ピエール・モントゥー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ピエール・モントゥー : ウィキペディア日本語版
ピエール・モントゥー[ちょうおん]

ピエール・モントゥー(, 1875年4月4日 - 1964年7月1日)は、フランスパリ生まれの指揮者
== 略歴 ==
靴のセールスマンのギュスターヴ・エリ・モントゥーとクレマンス・レベッカ(旧姓ブリザック)の息子、6人きょうだいの3男としてパリに生まれる。モントゥー家は南フランスに定住したセファルディムの出で、祖先には少なくとも1名のラビがいたが、モントゥーの両親は宗教的ではなかった。ピエールの兄弟には俳優のアンリ・モントゥー、軽音楽の指揮者のポール・モントゥー=ブリザックがいる。父は音楽に興味がなかったが、母はマルセイユコンセルヴァトワールの卒業生で、ピアノの教師をしていた。
パリ音楽院ヴァイオリンを学び、在学中から指揮活動をしていたという。パリ音楽院卒業後はパリ・オペラ=コミック座(ここではドビュッシーの歌劇『ペレアスとメリザンド』の初演にも楽員として立ち会っている)やコロンヌ管弦楽団の楽員だったが、1906年にコロンヌ管を指揮してデビューを飾る。
1911年からはディアギレフのロシア・バレエ団で指揮を担当、ストラヴィンスキーの『春の祭典』、『ペトルーシュカ』、ラヴェルの『ダフニスとクロエ』、ドビュッシーの『遊戯』など、20世紀の名作バレエ音楽の初演を多く振った。ロシア・バレエ団の指揮者就任と同じ年、自らコンセール・ベルリオーズを設立している。
第一次世界大戦中はモントゥーも兵役に服し、除隊後の1916年アメリカに渡り、翌年からはメトロポリタン歌劇場の指揮者に就任、主としてフランス系のレパートリーを多く指揮したが、リムスキー=コルサコフの『金鶏』のアメリカ初演も振っている。戦後はアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団ボストン交響楽団1919年から1924年まで音楽監督)の指揮者を歴任、その後、1929年にはパリ交響楽団の創立時の常任指揮者を務め、パリ響常任時代にはプロコフィエフ第3交響曲の世界初演を手がけている。1935年からはサンフランシスコ交響楽団の常任となり、同楽団の黄金時代を築いた。1953年に、同交響楽団の常任を退任。フリーとなり、客演活動が中心となる。
1953年12月2日に、米RCAビクターでのボストン交響楽団のピック・アップメンバーとの録音に於いて、同時に実験として行われたステレオ録音があり、その一部であるドリーブ作曲のバレエ音楽「コッペリア」の第1幕「前奏曲とマズルカ」は、1996年に、同社が行った現存する最古のステレオ録音として米にてCD化され公開された。1961年にはロンドン交響楽団の首席指揮者となり、死去するまでその地位にあった。
1963年にロンドン交響楽団を率いて来日。その際、第6回大阪国際フェスティバルにて公演を行い、同コンサートの4月13日公演分は、NHKテレビとラジオの双方で放送され、しかもラジオでは、当時FMステレオ放送実用化前のモノラル音声のAM2波によるステレオ放送番組「立体音楽堂」でも放送された。
フルート奏者、指揮者のクロード・モントゥー1920年 - 2013年)は2度目の結婚時に儲けた息子で、共演もしている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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